285.赤ん坊の小さな手
──夜が明けた。
けれど胸のざわめきは収まらず、私は落ち着かないまま朝を迎えてしまった。
心配でじっとしていられず、オリバーたちが用意してくれた食事を抱え、レーヴェとステラと共にロベールさんの家を訪ねる。
扉を叩くと、すぐに中からダンさんが顔を出した。
目の下に深い隈をつくり、明らかに徹夜した顔だ。
「ダンさんも来てくれたんですね」
「当たり前だろ。あいつらを放っておけるかよ」
短い言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
友を想い駆けつけてくれたその姿に、ロベールさんがどれほど支えられているかが伝わってきた。
家の中へ足を踏み入れると、重苦しい空気が漂っていた。
まだ夜の余韻を引きずるような静けさがあり、私たちの足音さえも重く響く。
奥の部屋をのぞくと、ソファに寄り添うように眠っているふたりの姿が目に入った。
ネロくんとルトくんだ。
ルトくんは泣き疲れたのか、兄の服をぎゅっと握ったまま眠っている。
ネロくんは弟を守るように抱き寄せ、浅い眠りに落ちていた。
成人したばかりの若者の顔には、気丈に振る舞おうとする強さと、拭いきれない疲労がにじんでいる。
頬にはまだ涙の跡が残り、その姿に胸が締めつけられた。
ステラが小さく息をのんで口元を覆う。
レーヴェも言葉を失い、ただ静かに眉を寄せていた。
私はそっと近づき、ふたりの髪を撫でた。
(……どれだけ心細かっただろう。どれだけ泣いたのだろう)
涙がにじみそうになり、慌てて瞬きを繰り返す。
「大丈夫」と口にしかけて、言葉を飲み込んだ。
空虚な慰めでは、この子たちの痛みは癒せない。
だから。
必ず、エレーネさんを助けなきゃ。
この子たちがまた笑って眠れる日を取り戻すために。
胸の奥で、あらためて強く誓った。
その時、奥の方から静かな足音が近づいてきた。
姿を現したのは、赤ん坊を腕に抱いたリズだった。
彼女の頬には薄く疲労の色がにじんでいた。けれど、その歩みはしっかりしていて、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
私の心配する視線に気づいたのだろう、安心させるように明るく言った。
「研究者時代は三日くらい徹夜することもありましたからね。一日寝ないくらい、どうってことありませんよ」
そう言って、赤ん坊の頬を指でつつき、誇らしげに笑う。
その仕草に、場の空気が少しだけ和らいだ。
リズの腕の中で、まだ小さな命が小さく息をしていた。
ステラとレーヴェは思わず目を見張り、息を呑む。
「……かわいい……」
かすかな囁きが漏れ、ふたりの表情が柔らかくほころぶ。
ダンさんも、ようやく肩の力を抜いたように笑った。
「本当に赤ん坊って、なんでこんなに可愛いんだろうな。自分の子どもでもないのに、可愛くて仕方ない」
赤ん坊を覗き込みながら、ふっと目を細めて声を落とす。
「でも、やっぱり……母親が、この子を一番愛おしく思うんだろうな」
その言葉が落ちた瞬間、誰もが口を閉ざした。
和やかになりかけていた空気に、再び影が落ちる。
胸の奥で皆が同じ思いに沈んでいくのが伝わり、私もまた苦しくなる。
だからこそ。
私は一歩前に出て、はっきりと声にした。
「この子を……お母さんがいない子にしちゃいけない」
自分に言い聞かせるように、仲間たちに願うように、言葉を紡ぐ。
「必ず……エレーネさんに、この子を抱いてもらいましょう。あの腕の中で、この子が安心して眠れる日を取り戻すために。みんなで、必ず」
沈みかけた空気を振り払うように、私は強くそう告げた。
リズは小さく頷き、赤ん坊を抱き直す。
ステラとレーヴェはまだ幼い表情に決意を宿し、ダンさんも静かに拳を握った。
その時、赤ん坊が小さく指を伸ばし、リズの胸をぎゅっと掴んだ。
まるで「待っているよ」と訴えるように。
胸のざわめきは消えない。
けれど、確かな思いがひとつ、皆の間に結ばれていた。
──エレーネさんを必ず救う。
それが、今この場にいる全員の祈りであり、誓いだった。




