282.絶望の中の希望
「エレーネッ!」
リズの必死な声に、室内の空気が一瞬で張り詰めた。
助産師が血相を変えてベッドへ駆け寄り、シーツをめくった途端──鮮血が視界を覆う。
「……っ、これは──」
「出血が止まらない! 布を重ねて! 急いで!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。
若い助手が立ち尽くすと、助産師が叱咤した。
「ぼんやりしないで! 押さえるのよ!」
「そんな……」
ロベールさんの顔が蒼白に染まる。
「エレーネ……しっかりするんだ。眠るな……頼む」
エレーネさんは力なく瞼を細め、かすかに唇を動かした。
「……だいじょうぶ……ほんの、少し……」
「駄目だ!」
ロベールさんの声は震え、今にも泣き崩れそうだった。
「もう頑張らなくていい……生きていてくれれば、それでいいんだ」
ネロくんは拳を握り締め、押し殺した声を吐き出す。
「なんで……赤ちゃんだって生まれたのに……」
ルトくんは母の手を離さず、涙に濡れた顔で叫んだ。
「お母さん……やだよ……行かないで……」
私は彼を抱き寄せ、必死に声を絞った。
「大丈夫……エレーネさんは強い人だから……」
だが、自分の声が震えているのがわかった。
リズは祈りを切らさず、白い指先を強く組み合わせている。
「水を! 熱湯を! 清潔な布を!」
助産師たちの声が飛び交い、室内は慌ただしい気配に包まれる。
蝋燭の炎が細く揺れ、壁に映る影が不安定に波打つ。
さっきまで祝福の光だったものが、今は不吉な揺らめきにしか見えなかった。
エレーネさんの顔色は雪のように白く、唇から血の気が引いていく。
赤ん坊の泣き声が重なり、それが胸を締めつけた。
「どうか……どうか、この命を……!」
私は心の中で必死に願った。
──どうすれば。
どうすれば助けられる?
出血を止める手段……治せる方法……。
この世界にある力で、まだ試していないものは……!
「……そうだ、リズの【治癒術】!」
藁にもすがる思いで彼女を振り返った。
「リズッ! 【治癒術】は!? リズのスキルなら……!」
けれどリズは苦悶の表情で目を伏せ、首を振った。
「……私の【治癒術】は、外傷にしか効きません。今の出血には……」
胸の奥が冷たくなる。
なら……ポーションなら?
「……じゃあポーションは!? 上級ポーションなら!」
私はマジックバッグに手を伸ばした。
だがリズがその手を掴み、強く首を振る。
「ポーションも同じです。ケガや病には効いても……」
そこへ、ロベールさんの低い声が重なった。
「妊娠も出産も……病気じゃない」
蒼白な顔で妻を見つめ、彼は絶望を押し殺すように言葉を継ぐ。
「だから……特効薬はないんです」
「……そんな……」
治癒術も、ポーションも効かない。
じゃあ──エレーネさんは……?
「お母さん! ……やだ、目を開けてよ!」
ルトくんの泣き声が部屋を震わせる。
はっとする。
私が絶望してどうする。
泣いている場合じゃない。
──まだあるはずだ。
私にしか掴めない答えが……!
「……血を止めるだけなら……」
私は無我夢中で叫んだ。
「ステータス!」
半透明のウィンドウが目の前に浮かぶ。
素早くスクロールし、『錬金術師になろう』のアイテム画面を開く。
──あった。
迷わずタップすると、小瓶が光とともに現れる。
震える手でそれを受け止めた。
中身は、かつてゲームの中で作った【止血薬】。
完全な治療はできなくても、血を抑える助けになるはずだ。
「リズ! これを!」
私は瓶を差し出した。
リズが驚きに目を見開く。
「……これは?」
「ポーションじゃない。私が“昔”作った止血薬よ」
彼女は瓶を受け取り、血に濡れた手でしっかりと握る。
その瞳に、一瞬だけ希望の光が宿った。
「……試してみます!」
ロベールさんは妻の手を強く握りしめ、必死に呼びかける。
「エレーネ……もう少しだ。耐えてくれ……!」
助産師が小瓶の栓に指をかけた、その瞬間──。
私は息を詰め、祈るように目を閉じた。
──どうか、この小さな一手が命をつなぐ光となりますように。




