281.産声の祈り
──その瞬間。
長い沈黙を破るように、鋭く高い声が夜を震わせた。
小さな、けれど確かな命の証。その産声は細くても凛として、闇を切り裂くように響いた。
「……っ!」
張り詰めていた胸から、大きな息がこぼれる。
リズが目を見開き、組んだ指先を白くなるほど強く握り締めたまま、震える声で呟いた。
「……生まれた……」
その言葉に、ルトくんは弾かれたように椅子から飛び降りた。
「赤ちゃん……! 生まれたんだ!」
その歓喜の叫びが部屋を満たし、重苦しい空気を歓喜が一気に塗り替えた。
ネロくんは両手で顔を覆い、決壊したように肩を震わせる。
嗚咽とも笑いともつかぬ声が漏れたが──きっと、その両方だった。
胸の奥が熱くなり、視界が滲む。
「よかった……!」
思わず声に出すと、ルトくんが私に抱きついた。
小さな体が震えていて、その温もりが直接、喜びと安堵を伝えてくる。
控えの部屋の蝋燭の炎は、今までになく柔らかく揺れ、祝福のように影を踊らせていた。
──新しい命が産声をあげた。
その瞬間、私たちの祈りは確かに届いたのだ。
そう、信じた。
そっと扉が開き、助産師が顔をのぞかせた。
「おめでとうございます。とても元気な女の子ですよ」
静かな声は、張り詰めた空気をやさしく溶かす。
疲労のにじむ顔には、それでも安堵と喜びがあふれていた。
「母子ともに無事です。……お会いになりますか?」
「行く!」
ルトくんが勢いよく立ち上がり、駆け出した。
私は慌ててその手を取って支え、ネロくんも深く息を吐いてゆっくり立ち上がる。
強張っていた表情がほぐれ、長い戦いを終えた兵士のような安堵が滲んでいた。
リズは胸の前で組んでいた手をそっと解き、静かに頷いた。
祈りを終えた彼女の瞳には、涙の光がまだ残っている。
──奥の部屋。
薄暗い照明の中、ベッドに横たわるエレーネさんがいた。
濡れた髪と滲む汗。だがその顔は、驚くほど穏やかで、柔らかい笑みを浮かべていた。
その腕には小さな包み。
白布にくるまれた赤ん坊が、もぞもぞと身じろぎをしながら、かすかな声をあげている。
「……お母さん!」
ルトくんが駆け寄り、ベッドの傍らにしがみついた。
エレーネさんは弱い力で腕を伸ばし、彼の髪をそっと撫でる。
「ルトくん……ごめんね、待たせちゃった。やっと、元気に生まれてきてくれたよ」
「お母さん……! 赤ちゃん……かわいい……!」
赤ん坊を覗き込みながら、はっと顔を上げた。
「ぼくの……妹? ぼく……お兄ちゃんになったんだ!」
その無邪気な言葉に、エレーネさんもロベールさんも顔を見合わせ、笑みを交わした。
ネロくんはゆっくりと近づき、震える手でエレーネさんの手を取った。
「……ありがとう。こんな言葉じゃ足りないけど……本当に、ありがとう」
「私だけの力じゃないわ。みんながいてくれたから……」
細い笑みとともに返される言葉。
リズも赤ん坊を覗き込み、祈りの余韻を残すように小さく呟いた。
「……健やかに育ちますように」
「……エリザベス様、ありがとうございます。ティアナ様も……」
エレーネさんが私に微笑みかける。
私は深く頷いた。
「本当にお疲れ様でした、エレーネさん」
その時、包みの中で小さな手が宙をひらひらと掴んだ。
たまらなく尊く、愛おしい仕草だった。
──新しい命が、確かにここにある。
蝋燭の光が母子を包み、室内は静かな祝福に満たされていた。
「……なんだか、疲れちゃった。少し眠いかも」
「……ああ。ゆっくり休んでくれ」
夫婦は互いに微笑みを交わす。
幸せそのものの光景なのに、胸の奥で小さなざわめきが芽生える。
「たくさん頑張ってくれて、ありがとう」
ロベールさんの労いに、エレーネさんは目を細めて頷いた。
その瞼がわずかに重く閉じかけたとき──
「エレーネっ!」
場を切り裂く鋭い声。
全員の体がびくりと震える。
声の主はリズだった。
普段は冷静な彼女が、珍しく顔を強張らせている。
「エレーネ様! 眠らないでください!」
助産師が私の横を駆け抜け、シーツを押さえる。
その時、私も気づいた。
「……なに……これ……」
ベッドの下へと滴り落ちていく、真っ赤な血。
静かな祝福に満ちていた空間が、一瞬で凍りついた。




