279.小さなおにぎりと大きな祈り
昼食を終えて一息ついたころ、私は調理場へと足を運んでいた。
炊き立ての米の香りや、煮込み鍋から立ちのぼる湯気が漂い、活気のある声が飛び交っている。
そんな中、私は少し緊張しながら口を開いた。
「小さなおにぎりをいくつか詰めて、色どりを添えて……旅の途中でも食べやすいものにしたいんです」
料理人たちは一瞬驚いた顔を見せたものの、すぐに手を止めて真剣に耳を傾けてくれた。
「なるほど……一口で食べられる大きさにすれば、確かに便利ですね」
「塩加減や具材次第で、いくらでも工夫できそうだ」
「色を添えれば、見た目にも楽しめそうです」
次々と声が上がり、思いもよらぬ反応に私は胸が高鳴った。
──やっぱり、ただの思いつきで終わらせたくない。
「例えば、梅干しなら赤、菜の花なら黄色。海苔の黒に、白ごまの淡い色を散らしても素敵ですわね」
「お肉を混ぜたものも欲しいです。男の方や子どもなら、そっちのほうが喜ばれるかもしれません」
気づけば、料理人たちの間でも小さな議論が始まっていた。
その光景に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
──次に会うとき、胸を張って差し出したい。そんな想いがますます強くなった。
「ティアナ……」
背後からミランダお姉様の声がして、振り返ると彼女がくすっと笑っていた。
「そうやって新しいことを考えているときの貴女って、本当に楽しそうよね」
「……やっぱり顔に出ていましたか」
ふっと苦笑がもれる。
「でも、それはミランダ様も同じですよ」
後ろに控えていたリズがさらりと言った。
お姉様は一瞬言葉を詰まらせ、私がつい吹き出すと、鋭い視線が飛んでくる。
「……はい、申し訳ありません」
慌てて頭を下げる私を見て、今度はリズが柔らかく笑んだ。
「でも、こうして話しているだけで、なんだか食べたくなってしまいますね。かわいらしいおにぎりが並んでいるところを想像すると……」
その言葉に、私はすぐに身を乗り出してしまった。
「でしょう!? 例えば梅の赤、菜の花の黄、紫蘇や胡麻の香り……彩りを詰めれば、それだけで旅の疲れも癒えると思うんです」
「うふふ、まるで小さな宝石箱ね」
ミランダお姉様が扇を口元に当て、楽しそうに微笑む。
「見た目の楽しさも、食事の大事な要素ですわ」
想像は次第に膨らみ、ついには「包み紙をどうするか」「汁気のある具はどう防ぐか」と、細かい話にまで及んでしまった。
話せば話すほど胸が躍り、すぐにでも試したい気持ちが抑えられない。
そんな時だった。
リズが、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「おにぎりといえば──エレーネが“全種類制覇しました!”って嬉しそうに言っていましたよね」
「あっ……」
胸の奥が温かく満ちていく。
──笑いながらおにぎりを頬張っていた姿。
──新作のネイルを見つめ、「出産が終わったらこれを塗ります」と未来を語った瞳。
──お腹をさすって「元気すぎるよぉ」と照れ笑いした声。
昨日のことのように思い出され、頬が自然と緩んだ。
「もう……そろそろのはずよね」
ミランダお姉様が扇をひらりと動かしながら、落ち着いた声で言う。
「無事に元気なお子が生まれることを祈るばかりですわ」
「本当に……」
リズも胸に手を当て、やさしく微笑んだ。
「そうですね。……生まれたら、真っ先に“おにぎりセット”を届けたいです」
私の言葉に、二人はそっと頷いてくれた。
──それから、さらに数日が過ぎた。
「ティアナ様! 大変です!」
廊下から若い使用人の少年が駆け込んできた。
たしか彼は……リュミエール商会で働いている、届け物などでよく動いてくれる子だ。
顔は紅潮し、肩で息をしている。
「エレーネさんが──今朝方から産気づかれたそうです!」
「……!」
心臓が跳ねる音が、全身に響いた。
「助産師は?」
すぐにミランダお姉様が問いかける。
「もう呼ばれているそうです! ご家族も付き添って……!」
最後まで聞く前に、私は声を上げていた。
「準備を! 私たちもすぐに向かいましょう!」
「ティアナ、落ち着きなさい。赤ちゃんはすぐに生まれるわけではありませんよ」
お姉様に諭され、私ははっとして足を止める。
その後ろで、リズが静かに祈るように言った。
「無事に……母子ともに元気でありますように」
◆
馬車の車輪が石畳を打つ音が響く。
胸の鼓動は早鐘のようで、窓の外の景色はほとんど目に入らなかった。
──エレーネさん。
どうか、あなたと赤ちゃんが元気でありますように。
私は強く両手を握りしめ、祈り続けていた。
馬車がエレーネさんの家の前に到着すると、ネロくんが家の中から出てきた。
険しい表情をしていたが、私たちを認めると、ほっと息を吐き、深く頭を下げた。
「……来てくれて、ありがとうございます」
「当然です」
短く答え、私とリズは案内されて控えの部屋へ入った。
そこにはルトくんの姿もあった。小さな体を椅子に預け、落ち着かない様子で足を揺らしている。
私がそっと隣に座ると、彼は不安そうな瞳でこちらを見上げた。
「お母さん……大丈夫だよね?」
「大丈夫。……とても頑張り屋だから」
そう言って頭を撫でると、ルトくんはきゅっと唇を結び、うなずいた。
長い沈黙の中、外からはときおり人の足音や押し殺した声が伝わってくる。
張りつめた空気に包まれ、誰もがただ祈るように息をひそめていた。
──やがて聞こえてくるであろう産声を待ちながら。




