278.日常に戻って、次の一歩へ
馬車が見えなくなるまで、私はじっとその後ろ姿を追っていた。
石畳に響いていた蹄の音がやがて遠ざかり、庭に残されたのは風のそよぎと小鳥のさえずりだけ。
……胸の奥がきゅうっと締めつけられるようで、それでも不思議と寂しさよりも温もりの方が勝っていた。
「また会える」
そう約束できたから。
そして──次はシルヴィア殿下にも会える。そう思うと、自然と頬がゆるんでしまう。
「はあ……」
深く息を吐いて振り返ると、ミランダお姉様がこちらを見て、扇をひらりと振っていた。
「さて、名残惜しさに浸ってばかりもいられませんわ。もうすぐ昼食の支度が始まりますし」
「……そうですね」
返事をしながらも、心はまだ少しだけ旅立った二人を追っている。
けれど、立ち止まってばかりもいられない。次に会うとき、誇りを持って迎えられるように。今日からまた歩き出さなくては。
屋敷の中へ戻ると、廊下の奥から香ばしい匂いが漂ってきた。どうやら料理人たちが昼食の準備を始めているらしい。
「……そういえば」
ふと、先ほど口にした“おにぎりセット”のことが頭をよぎる。思いつきで言っただけなのに、フレイヤ様はあんなに嬉しそうに笑ってくださった。
「小さめのおにぎりをいくつか詰めて……いっそ手毬寿司みたいに彩りを添えるのもいいかも」
ぼんやりと呟き、私は足を止める。
もし本当に形にできれば、遠方から訪れる方々にも喜んでいただけるのではないだろうか。旅の途中でも手軽につまめるように、包み方まで工夫すれば──。
「ティアナ?」
背後から声がして振り返ると、ミランダお姉様が覗き込むように立っていた。
「また何か考えていたでしょう。顔に出ていますわよ?」
「……ばれましたか」
思わず苦笑がもれる。
「ええ、さっきの“おにぎりセット”のことよね?」
「……はい。やっぱり気になります」
ミランダお姉様は肩をすくめて、それから小さく笑まれた。
「でも、あなたらしいわ。思いつきを形にする力があるからこそ、皆がついてくるのですもの。──後で、私にもちゃんと説明してちょうだいね」
その言葉に背を押されるように、私は小さく頷いた。
昼前の光が窓から差し込み、磨かれた床をやわらかく照らしている。
寂しさはまだ胸の奥に残っている。けれど、次の再会を楽しみにできるからこそ、私は今日も前を向けることができた。
食堂に足を踏み入れると、すでに白いクロスのかかった大きな卓が整えられ、窓からの陽光が斜めに差し込み、銀器の縁をきらめかせていた。
席に着くと、香ばしいパンの匂いと煮込んだスープのやわらかな香りが鼻をくすぐる。料理人たちが忙しく動き、湯気を立てる皿が次々と並べられていった。
「ふふ……こうしていつもの昼食をいただいていると、さっきまで客人を見送っていたのが夢のようね」
ミランダお姉様がカップを持ち上げながら、どこか安堵したように言われる。
「そうですね。……でも、お見送りのあとなので、余計に日常のありがたみを感じます」
私はスープを一口すすりながら答えた。温かさが喉を通るたび、心に残っていた寂しさが少しずつほどけていく。
けれど、頭の片隅にはまだ“あの思いつき”が居座っていた。
気づけば、パンを小さくちぎりながら、つい口を開いてしまう。
「おにぎりセット……やっぱり本当に作ってみたいです」
「ほらね」
ミランダお姉様がすぐさま私を見やり、呆れたように笑った。
「絶対に食事中に言い出すと思っていたわ」
「えっ……そんなにわかりやすいですか?」
「ええ、顔に“考えごと中”って出ていますもの」
苦笑しながら視線を落とすと、横に控えていたリズがくすっと笑みをこぼした。
「でも、ティアナ様の思いつきはいつも楽しいです。小さなおにぎりを並べるなんて、想像するだけで食べたくなってしまいます」
「まあね」
ミランダお姉様は扇をひらりと動かして頷いた。
「見栄えを考えるなら、色とりどりにすると良さそう。白い米に梅の赤、菜の花の黄、海苔の黒──小さなものならではの華やかさが出せるはず」
その言葉に、胸がわくわくと膨らんでいく。
「旅の途中でも食べやすいように、一口でぱくりと食べられる大きさにして……包み紙を工夫すれば手も汚れません。詰め合わせれば、お弁当代わりにもなりますね」
「まあ、もう頭の中で半分形になっているのね」
ミランダお姉様が呆れ半分、感心半分といった目を向けてくる。
頬を少し熱くしながらも、私は心からの思いを告げた。
「だって……フレイヤ様のあの笑顔を見たら、本当に形にしたくなってしまいました」
場に一瞬、静かな温もりが流れる。
──そう。あの時の無邪気な笑顔は、思いつきをただの冗談に終わらせない力を持っていた。
次にお会いする時には、必ず「できました」と胸を張って言いたい。
ミランダお姉様がスープを一口すすると、くすりと笑った。
「それなら……午後から試作してみたらどう? 料理人たちも暇ではないでしょうけれど、相談するだけでも始められるでしょう」
「……はい!」
返事は自然と力強くなっていた。
昼前の光が卓を照らし、銀器に反射してきらきらと瞬いている。
別れの余韻を抱えながらも、次へと繋がる小さな一歩が、ここから確かに始まろうとしていた。
──再び出会う日のために。




