275.温かな食事と信頼の絆
食後、卓上の皿が片づけられ、代わって温かな茶器が並べられた。
リズが淹れた香り高いお茶が、湯気を立てながら三人の前にそっと置かれる。
「……ふぅ」
ヴィオレッタ様は一口含み、満ち足りたように息を吐いた。
「昨日のおにぎりも夕食も美味しかったですけれど……今朝の朝食は格別でしたわね」
隣のフレイヤ様も頬をほころばせ、嬉しそうにうなずく。
「はい……! お味もそうですけど、料理人さんが目の前で作ってくださるなんて……贅沢すぎますっ!」
その感嘆に、オリバーとアンナは一歩下がり、穏やかな笑みとともに深く礼をした。
だが、ミランダお姉様がわざとらしく肩をすくめ、口を挟む。
「でしょ? オリバーもアンナも本当に優秀なのよ。私だって欲しかったのに……結局、何度お願いしても断られ続けちゃったんですもの」
「ミランダお姉様」
私は戒めるように名前を呼ぶ。
「オリバーもアンナも私のところの人材です。勝手に引き抜こうとしないでください」
「冗談よ、冗談」
お姉様は扇子を軽くあおぎ、悪びれない笑みを浮かべる。
けれど私は半眼になり、さらに釘を刺した。
「使う分には構いません。けれど……あげませんからね。それに、もし本当に仕事を頼むのなら、ちゃんと手当を払ってください。勝手に決めず、本人たちの都合を聞いてから依頼してくださいね」
「……はいはい、わかってますよ」
ミランダお姉様は肩をすくめ、苦笑とともにお茶を口に含んだ。
オリバーが背筋を正し、落ち着いた声で告げる。
「我々はティアナ様にお仕えする身。ですがミランダ様もこの家の方。必要とあらば、どうぞお声がけください。ただし──普段の務めに支障が出ない範囲で、ですが」
その言葉にアンナも柔らかく微笑み、静かに頷く。
だが私はきっぱりと否を示した。
「ダメです」
場に小さな緊張が走る。
「あなたたちはジルティアーナ様をはじめ、この屋敷の方々の食事や、お迎えするお客様のために雇っているのです。臨時で他の仕事をするなら、代わりに休みをとるなり、基本給とは別に手当をもらわなければなりません」
私がこうして念を押すのはいつものことなので、ミランダお姉様は呆れたように息を吐き、オリバーとアンナは目を合わせて控えめに微笑んでいた。
だが──フレイヤ様だけは驚いたように声を上げる。
「平民の使用人にそこまで気を配るなんて……そんな方、初めて見ました」
ぽつりと落とされた言葉に、皆の視線が自然と彼女へ集まる。
フレイヤ様はハッとし、慌てて両手を振った。
「す、すみません! 決して平民を馬鹿にしたわけではないんです」
その言葉で、私もふと気づく。──そういえばフレイヤ様は……。
彼女は少し戸惑いを見せながらも、意を決したように口を開いた。
「実は私……子どもの頃は平民として生きていたんです」
フレイヤ様は茶器をそっと握り、視線を落とす。
しばし迷うように唇を噛んでいたが、やがてためらいを断ち切るように言葉を紡いだ。
「……平民にとって、貴族は恐怖の存在でしかありませんでした」
その声は小さかったが、食堂の静けさの中では一層鮮明に響く。
「命じられれば従うしかなく、時には理不尽に打たれることもある。貴族にとって平民は……使う物。ただの道具と同じ。
もちろん今は、中にはそうではない方もいることは分かっています。けれど……そういう貴族が多いのも事実です」
ヴィオレッタ様が眉を寄せ、言葉を探すように唇を開いたが、その先を飲み込み、ただ耳を傾けていた。
フレイヤ様は茶をそっと置き、真っ直ぐに私を見つめる。
「なのに……ティアナ様は違うんですね。平民の都合を気にかけるだけでも驚きなのに……さらに“手当”まで支給するなんて」
その声音には、驚きと感嘆が入り混じっていた。
「……私、これまでそんな方を一度も見たことがありません」
その言葉に、場に柔らかな沈黙が落ちる。
ミランダお姉様でさえ、からかうような笑みを消し、真剣な眼差しでフレイヤ様を見ていた。
オリバーとアンナは控えめに頭を下げ、リズはどこか誇らしげに微笑んでいる。
私は頬をかき、照れ隠しのように笑みをこぼした。
「別に特別なことじゃありませんよ。働いてくれる人がいてこそ、この屋敷も回るんです。だから当然のことをしているだけです」
フッと小さく笑みを浮かべ、ヴィオレッタ様が言葉を洩らす。
「それを“特別じゃない”と言い切れるティアナ様だからこそ、この屋敷や街の方たちは貴女を信じて働くのですわ。そして……貴女のために、先ほどのような素晴らしい朝食を作り上げられるのでしょうね」
「そ、そんな大げさな……」
思わず否定しようとした私だったが、その言葉は最後まで言い切れなかった。
控えていたオリバーが一歩進み出て、深く頭を下げる。
「ヴィオレッタ様のお言葉、まさしくその通りにございます」
「オリバー?」
私は思わず目を見開いた。
オリバーは揺るがぬ声音で続ける。
「我らがこうして日々の務めに励み、心を尽くして料理をお出しできるのは、ティアナ様のお人柄あってこそ。使用人をただ使うのではなく、きちんと人として尊重してくださるからこそ──我々もまた心から仕えたいと思えるのです」
アンナもそっと微笑みを添える。
「はい。だから、料理に込める気持ちも自然と変わります。……皆様に、お客様に“美味しい”と笑っていただけるように、と」
私は居心地の悪さに視線を逸らし、茶器をそっと指先で回した。
胸の奥がむず痒くなるようで──けれど、温かい熱がそこにじんわりと広がっていた。




