272.銀糸きらめく朝
フレイヤ様の言葉に、胸の奥で小さな灯りがともるような気がした。
五人──私、ミランダお姉様、ヴィオレッタ様、フレイヤ様、そしてシルヴィア様。
その光景は、まだ見ぬ未来なのに、不思議と鮮やかに浮かんでくる。
「ふふ、楽しみが増えましたわね」
ミランダお姉様が、柔らかな笑みを向けてくださる。
けれど、その視線の奥には、ほんの少しだけ探るような色が見えた。
私が王族と顔を合わせることへの不安を、見抜かれたのかもしれない。
「ティアナ様なら、きっと大丈夫ですわ」
ヴィオレッタ様が、私の手の上にそっと自分の手を重ねてきた。
その温もりに、張り詰めかけた心がゆるむ。
「……はい。ありがとうございます」
口にした声は、我ながら少しだけ震えていた。
甘い香りがまだ漂う部屋の中で、これから訪れる四日後の出会いに思いを馳せながら──
私はどんなチョコレートを詰め合わせようかと、心の中で静かに数え始めた。
◆
──翌朝。
夜と朝の境目の冷気が、廊下の石床から足裏に伝わってくる。
まだ客室は静まり返っていて、ヴィオレッタ様たちの扉の向こうにも気配はない。
肩に掛けた薄手のショールを整え、私は厨房の扉を押した。
「おはようございます、ティアナ様」
最初に頭を下げたのはオリバー。
背後ではアンナが秤の針を覗き込み、粉と砂糖をきっちりと量っている。
少し遅れて顔を出したのはマイカちゃん。父の真似をした小さな前掛けを結び、緊張と期待の入り混じった目でこちらを見上げてきた。
「おはようございます、オリバー、アンナ。……早くからありがとう、マイカちゃん。眠くはない?」
「大丈夫です! チョコレート作り、手伝わせてください!」
四年のあいだに、マイカちゃんもぐっと背が伸びてすっかりお姉さんらしくなった。
まだ【料理人】ではないが、ここクリスディアで私やオリバーと一緒に多くの料理を作ってきた。
──スキルがなくても、丁寧に教えれば料理はできる。
その当たり前のことが、この世界では新鮮な驚きだったのだ。
今ではマイカちゃんもマリーも、立派に食卓を支えてくれるようになった。
なかでもマイカちゃんは、お菓子作りに夢中だ。嬉しいことに──最初に一緒に焼いたナポルケーキが、忘れられないらしい。
「ティアナお姉ちゃん。最初はチョコレート作りからでいいんだよね?」
少し大人びた声でそう言うが、笑顔は昔のまま。
「うん。チョコレートは冷やす時間が必要だからね。まずはそちらから」
火加減を弱めた湯の上に、刻んだチョコレートをのせた銅の鉢を据える。
ふわりと甘い香りが押し上げられ、まだ冷たい朝の空気に帯のように広がった。
オリバーが木べらで縁を払うと、角ばっていた欠片がゆっくりと沈み、艶を帯びていく。
「ここからは温度が肝心! ……ですよね?」
アンナが布巾を差し出し、鉢の底をぬぐって石台へ。
オリバーが半分を流すと、鏡のように広がったチョコレートが薄い帯になり、音もなく冷えていく。
べらで持ち上げ、落とし、また広げる──そのたびに艶が締まり、香りの輪郭がはっきりした。
「マイカ、頼めるか?」
「……はい!」
マイカちゃんは慣れた手つきでチョコを広げる。
「うん。さすがはマイカちゃん! そのまま空気を入れないように」
「まかせてくださいっ!」
その間にアンナが「混ぜもの」を整える。刻んだ干しレザブ、炒った胡桃とアーモンド、砕いたカカオ、そしてベル特製の塩の小さな結晶をほんのわずか。
「塩は舌に触れず、香りだけを引き立てるつもりで」
「承知いたしました、ティアナ様」
アンナの匙の動きは、秘密を打ち明けるみたいに静かだった。
固まり具合を見極めるため、薄紙に一滴落とす。
数呼吸で表面が張り、指で触れても跡がつかない──合図だ。
「戻しましょう」
チョコレートを鉢に返して混ぜると、さらに深い艶が生まれた。
まずは果実の板。
干しレザブを散らして上から薄く覆いかぶせる。
「果実は端まで入れすぎないようにね。割ったときに崩れるから」
「はい!」
マイカちゃんが木の棒で端を整え、型紙に沿って切れ目を入れていく。規則正しい音が静かな厨房に響いた。
次はナッツのロッシェ。
匙で落とすたびに小山のような丸ができる。
表面に胡桃、アーモンド、最後にひとかけの塩。
「塩を嫌う方もおられますから、目立たぬように」
「わかりました……あ、今のはちょっと欲張りすぎました」
「欲張りはお菓子を重くするぞ」
オリバーの声は厳しいが、誇らしげでもあった。
最後は素のプレーン。
何も混ぜない薄板は厚みが命。私は金の櫛で表面を撫で、揺らぎを取っていく。
「これはシルヴィア様にも差し上げる予定です。香りが移らぬように箱を分けましょう」
「蝋引き紙をご用意します」
アンナが紙束を差し出し、私は頷いた。
さらに、生クリームを温めてガナッシュも仕込む。
「今日は三層にしましょう。果実、ミルク、ビターの順で」
果実層には干しレザブを漬けた蜂蜜を落とし、ミルクは甘さ控えめに。最後のビターで全体を締める。
「重ねるときは前の層が落ち着いてから。待つのもお菓子の仕事よ」
「……待つの、苦手です」
「だからこそ、お菓子は静かになるのかもしれませんね」
自然に声が小さくなった。
サブレも焼いた。ココアを混ぜた薄焼きで、片側だけにカカオを散らす。
「片側だけ?」
「香りを寄せると口にしたときの表情が変わるの。おにぎりの具と同じ理屈よ」
「おにぎりとお菓子……!」
マイカちゃんの目がさらに丸くなる。私は笑みをこぼした。
焼き上がったサブレを網に並べ、冷めるのを待つ。
固まったチョコレートを割ると、果実は星のように散り、ナッツは艶やかに落ち着いていた。プレーンは指を押し返す張り。よし。
「詰め合わせは三つの小箱に分けましょう」
私は蝋引き紙で一枚ずつ包み、アンナが箱を整え、マイカちゃんがリボンを選ぶ。
「シルヴィア様には静かな色がいいでしょう」
「では、深い青と銀糸で」
マイカちゃんは丁寧に結び目を整え、美しい蝶々を作った。
綺麗な出来栄えに、オリバーが目尻をゆるめた。
「お父さん、次は……」
「次はおにぎりでしょうが──」時計を見てオリバーが笑う。
「その前に、お菓子は完璧だ。よくやったな、マイカ」
「……ほんとうに?」
「ほんとうに、ね」
私も頷いた。
ちょうどその時、廊下の向こうで鈴が鳴った。
屋敷が朝を迎える合図。だが客室はまだ静か。
私は三つの箱を重ね、指先で蓋をそっと押さえた。
──甘さは充分。次は炊き立てのご飯でおにぎり作りだ。
早朝の光が厨房の窓辺に差し込み、銀の糸がひと筋きらめいた。




