268.米とカカオの物語
リズがもう一度ポットを傾け、澄んだ琥珀色の紅茶が皆のカップに静かに注がれていく。
立ちのぼる湯気がふわりと頬を撫で、甘くやわらかな香りが部屋中を包み込んだ。
「はぁー……」
「──フレイヤ」
紅茶をひと口飲んだフレイヤ様が、満ち足りたように深く息を吐く。
その様子を咎めるように、ヴィオレッタ様がやや鋭い声で名を呼んだ。
「申し訳ございません。先ほどの夕食があまりにも美味しくて……つい」
頬をかきながら恥ずかしそうに笑うフレイヤ様。
その隣で、ネージュがぱっと目を輝かせる。
「でしょ!? ティアナたちが作る料理は、すっっごく美味しいの!!」
胸を張って誇らしげに言い切るその姿に、ヴィオレッタ様も柔らかく微笑み、ゆっくりと頷いた。
「はい、本当に……とても美味しかったですわ」
やがてヴィオレッタ様はカップを置き、興味深そうにこちらを見やる。
「先ほどの“パエリア”というお料理もですが……クリスディアでは、お米というものをよく使うのですね。わたくし、あの粒状の穀物は初めていただきましたわ」
フレイヤ様も同意するように頷く。
「ええ……小麦や芋は馴染みがありますが、あの形の食べ物は初めてで。しかも、味も食感も独特で、本当に美味しかったです」
「このお米は、今はまだクリスディアの限られた地域でしか採れない、特別な作物なのです」
私はカップを置き、続けた。
「似た品種の穀物は昔から各地で栽培されていましたが……私の専属たちが、より食べやすく美味しい品種へと改良してくれたのです」
「くす……っ」
小さな笑い声がして、視線を向けるとミランダお姉様が目を細めてこちらを見ていた。
「まあ、まさか……鶏のエサを、自分たちで食べようだなんて……普通は思いつかないわよねぇ」
「と、鶏のエサ!?」
フレイヤ様が椅子から身を乗り出すほどの驚きようだった。
「……そんな、あれは鶏のエサだったのですか?」
半ば呆然とカップを抱えたままのフレイヤ様が、ぽつりと付け加える。
「……鶏が……あんな……美味しいものを食べていたなんてっ!」
その悔しげなつぶやきに、ヴィオレッタ様が「ぷはっ!」と吹き出す。
「食べさせられたことより、鶏が贅沢してたことを気にするなんて……さすがフレイヤね」
お姉様が笑いを含ませて肩を揺らす。
私は口元に笑みを浮かべつつ、補足を加えた。
「元は鶏のエサでしたが……食糧難のときに“食べてみよう”という話になったそうです。
ただ、そのままでは固くてとても食べられなかった」
カップの縁を指でなぞりながら、私はふとエイミーの涙を思い出す。
うまくいかない米作りに肩を落とした彼女。
改良に知恵を貸してくれたイゴルさんとイリアさん──あの時、みんなで力を合わせた日々が胸によみがえる。
「お米は、生のままでは食べられません。“精米”をし、“炊く”ことで初めて美味しくなる……そう提案したのが私でした」
「……ティアナ様が……?」
驚きに目を見開くフレイヤ様へ、私は微笑を返す。
「工夫を重ね、今では貴族の食卓にも並ぶほど美味しく、栄養価も高い食材になったのです」
「一見、何でもないものでも……工夫次第で価値が変わるのですね」
感心したように目を細めるヴィオレッタ様。
その隣でミランダお姉様も頷く。
「ティアナが初めて食べたとき、私も正直“本当にこれを食べるの?”って思ったわ」
「お姉様!」
抗議の声を上げる私に、ネージュがくすくす笑って場が和む。
「でもさ、そのお米があったから、パエリアもおにぎりもできるんだよね」
ネージュの言葉に、フレイヤ様の耳がぴくりと動く。
「おにぎり……!」
「そう、おにぎりにはお米が欠かせないのよ」
お姉様がうんうんと頷き──ふと思い出したように続ける。
「鶏のエサも驚きだったけど……チョコレートも、かなり衝撃だったわ」
「チョコレートって……ワッフルにかけられていたあのソースのことですか?」
「そう、それよ」
フレイヤ様の問にお姉様が紅茶を一口含み、懐かしそうに目を細める。
「カカオの実を初めて見たときも、“これ、食べられるの?”って思ったの。
殻を割って中を粉にして舐めてみたら……もうびっくりするほど苦くて、とても口にできたものじゃなかったわ」
私が小さく笑って頷くと、お姉様は肩を竦める。
「でも、あなたに“砂糖と混ぜてみて”って言われて試したら……あら不思議。
あんなに苦かったものが、甘くて香りの良いお菓子になってしまったんだから、本当に驚いたのよ」
「その“チョコレート”……甘くする前は、そんなに苦いのですか?」
「ええ。国によっては薬として扱われることもありますし、カカオ分が高いほど甘さは控えめで、苦味が強くなるのです」




