266.聖獣様はお腹を空かせたい
きゅうぅぅぅ~っ。
静まり返った室内に、愛らしい音がひとつ。
もちろん、主はネージュだ。
すぐに私の袖口をちょんちょんと引き、上目づかいで覗き込んでくる。
「ねー、ティアナぁ……もうネージュ、お腹空いちゃったよぉ……」
情けない声に、思わず肩が揺れた。
全員の視線がネージュへ向かい──次の瞬間、ふっと笑みがこぼれる。
「ふふ……愛らしいこと」
ヴィオレッタ様が、目尻をやわらかく下げた。
「聖獣様も、お食事は欠かせないのですね」
フレイヤ様が素直な驚きをにじませる。
「いえ、本来は食事を必要としないそうです。……そもそも、聖獣には空腹という感覚がないとか」
「え……? でも──」
“さっきお腹鳴ってましたよね?”と言わんばかりに、ネージュへ視線を送る。
するとミランダお姉様が、口元に苦笑を浮かべた。
「食べなくても平気なんだけどね。でも、空腹で食べるご飯が美味しいって知ってから……わざとお腹を空かせるようになったのよ」
「……ええっ!?」
フレイヤ様が目を丸くする横で、ネージュは「ふふん」と胸を張る。
──いや、それ、威張ることじゃないから。
「少し早いけど……夕飯の準備、しよっか?」
私が提案すると、ネージュの表情がぱっと花開いた。
「うんっ! 早く食べたーい!」
もし尻尾を出していたら、確実にパタパタと揺れているだろう。
その笑顔に、私もつられて口元が緩んだ。
* * *
着替えを済ませ、少し休んだのち、再びヴィオレッタ様たちと合流して食堂へ向かう。
今の私は、この館の主──ジルティアーナ。
髪色を元に戻し、化粧も“ティアナ”のときとは変えている。
とはいえ、念のためベールを掛けていた。
隣を歩くのは、人型の少女の姿をしたネージュ。
「今日のごはんは、何かな~」
弾む声が廊下に響く。
「それは……見てからのお楽しみ」
「えー! でも、まいいや。どれも美味しいから!」
そんな無邪気なやりとりに、ヴィオレッタ様とフレイヤ様が目を合わせ、
「かわいらしいですね」
「ええ。見ているだけで元気をもらえます」
と微笑みを交わす。
やがて、食堂に近づくにつれ、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ネージュも鼻をひくひくさせる。
「ん~! いい匂い……これはっ!」
香りを味わっていたネージュが、ぱっと目を見開いた。
「パエリア!?」
「……当たり」
「やっぱり!? やったー!」
両手を上げて喜ぶネージュに、場の空気が一段やわらぐ。
「……パエリア?」
フレイヤ様が首を傾げる。
「はい。海の街クリスディアらしく、海鮮パエリアをご用意しました。おにぎりと同じ“お米”を使った料理です」
「まぁ……楽しみですわね」
ヴィオレッタ様は上品に頷き、フレイヤ様と視線を交わした。
* * *
扉を開けると、湯気と共に温かな空気が流れ出す。
中央の大皿には黄金色のパエリア。海老や貝、白身魚が彩りよく並び、レモンが鮮やかな差し色を添えている。
その周囲には、瑞々しいトマトとモッツァレラのカプレーゼ、レモン香る魚介のマリネ、香草オイルで和えた温野菜、そしてガーリックトーストが籠に山盛りだ。
「わぁぁぁ……!」
ネージュの瞳が、宝石のように輝く。
リズが椅子を引き、私たちは席に着いた。
まずは前菜から。
カプレーゼを口に含むと、トマトの甘みと酸味がはじけ、バジルの香りがふわりと広がる。
「んーっ! これも美味しい!」
ネージュはフォークを忙しなく動かし、マリネ、温野菜、トーストと次々に平らげていく。
「落ち着いて食べて下さいね」
ミランダお姉様が呆れ半分で注意するが、ネージュは頬をふくらませたまま、
「だって、全部美味しいんだもん!」
と答える。
やがて、パエリアが一人ひとりの皿に取り分けられた。
海の香りと米の甘み、魚介の旨味が口いっぱいに広がり、思わず息が漏れる。
「これが……海鮮パエリア」
スプーンを口に運んだフレイヤ様が、驚きの色を浮かべる。
ヴィオレッタ様も
「おにぎりと同じお米なのに、まるで別の料理みたい」と感心した。
「はい。形や味付けを変えると、全く違う料理になるんです」
私が答えると、ヴィオレッタ様は上品に微笑んだ。
「もしパエリアがお口に合わなければ、ガーリックトーストもございますので」
そんなやりとりの最中──
「……んぐっ!」
ネージュが突然、両手で口を押さえる。
「ちょっと、大丈夫!?」
すぐにリズが水を差し出す。
ごくごくと飲んだあと、ネージュは涙目で、
「……ぷはぁっ! お米、ひと粒……変なところに入った……」
と訴えた。
その場に、くすくすと笑いが広がった。




