265.聖獣様へのご挨拶
「……“使用人や”って。あ、そういえば──馬車の中で仰っていましたよね? “屋敷の中で他の使用人たちがいるときは、ティアナと呼んでください”って……」
思い出したように口にしたフレイヤ様が、ぱちりと目を丸くして私を見た。
私は人差し指をそっと唇に当て、声を落とした。
「ええ。私がジルティアーナだと知っているのは……本当に、限られた人だけなんです」
それは側近ですら全員じゃない。
そう言わずとも、フレイヤ様の表情はすぐに理解を示していた。
「この子、自分で直接……平民と話したり、自分の手で料理をしたいって言い出してね」
ミランダお姉様が、呆れ半分・諦め半分の笑みを浮かべながら補足する。
フレイヤ様は戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
「確かに、上級貴族──それも領主ともなれば、平民と直接話す機会なんて、滅多にないでしょうけど……」
そのとき、不意に「ふふ……っ」という声が漏れた。
「あはははははッ!!」
思わず声のほうへ顔を向けると、そこには爆笑するヴィオレッタ様。
今まで上品に微笑んでいた彼女が、大きな声で笑っている。
あまりの変化に、私のほうが驚き、じっと見つめてしまった。
視線に気付いたヴィオレッタ様は、笑いを収めようとしながらも息を弾ませて言う。
「ごめんなさいね……笑ってしまって……。でも、平民と直接話したいがために、こんなに大がかりなことをするなんて……ふふっ!」
まだ笑いをこらえきれないのか、肩が小刻みに揺れていた。
そんな様子を見ていたフレイヤ様が、ふっと笑みを漏らす。
「……なんだか、懐かしいですね」
「え?」
「そうね、あんなこともあったわね」
ヴィオレッタ様が、唇に笑みを残したまま頬を紅潮させる。
「ヴィオレッタ様っ……!」
フレイヤ様は恥ずかしそうに名前を呼び、その声音に、さらに笑いの火が小さく灯った。
フレイヤ様は、ほんの少し頬を緩める。
その表情は、どこか昔を懐かしむようだ。
私がそんなお二人を眺めていた視線に気がついたフレイヤ様が、教えてくれる。
「……昔、私もこのようにヴィオレッタ様に笑われたことがありまして」
「ふふっ……あの時も、本当におかしかったわ」
ヴィオレッタ様は楽しげに目を細めた。
「あのときのあなた、あまりにも必死で……それに“とんでもございまへん”って。ふふっ……思い出しただけで……」
クスクスと笑いがこぼれる。
フレイヤ様は恥ずかしそうに視線を逸らし、小さく肩をすくめた。
「……忘れてくださっても良かったんですけど」
「忘れられるわけないじゃない。あれは……私にとっても大事な思い出なのよ」
そう言ってヴィオレッタ様は、柔らかな眼差しをフレイヤ様へ向ける。
二人の間には、過去の出来事を知る者同士だけが分かち合える、温かなぬくもりが漂っていた。
「──と、私たちの話はこのくらいにして……」
ヴィオレッタ様はふっと息を整え、笑みを残したまま、今度はネージュに視線を移した。
そして優雅な足取りで距離を詰め、わずかに身を傾け、柔らかな声で続ける。
「はじめまして、ネージュ様。ご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
突然名を呼ばれたネージュは、ぱちりと瞬きをした。
「うん、いいよー」
……うん。絶対よく分からないまま返事してる。
そんなことを思いながら二人を見ていると、ヴィオレッタ様の瞳がふわりと和らいだ。
その瞬間、場の空気がやんわりと解けた気がした。
私は静かに息を吐く。
彼女は本当に、人の心を掌で転がすのが上手い。
ネージュもヴィオレッタ様の柔らかい雰囲気に笑顔を浮かべていた。
……もし今、尻尾を出していたら、間違いなくパタパタ揺れているだろう。
そんなネージュの横で、私は少し背筋を伸ばす。
──さて、ヴィオレッタ様は、ネージュに何を言うつもりなんだろう。
ヴィオレッタ様はその場にひざを折り、ネージュと目線を合わせた。
「まさか……こうして聖獣様のお姿を拝見できる日が来るとは思いませんでした。それも、ご挨拶までできるなんて」
ネージュは少し照れくさそうに笑う。
そんな言葉に同意するように、ミランダお姉様が頷いた。
(──そういえば、ネージュが生まれた時も、お姉様は感動して似たようなことを言ってたっけ)
ぼんやりと思い出しながらお姉様を見やると、鋭い目線を返された。
「あんたは聖獣様とお会いできること、言葉を交わせることがどれだけすごい事か……相変わらず全然分かってないようだけど、本当に凄いことなのよっ!」
その言葉に、ヴィオレッタ様とリズも真剣な顔で首を縦に振ったが、私と同じく当のネージュにもピンと来ないようで、私たちは揃って首を横に傾げた。




