264.二人のジルティアーナ
馬車はゆっくりと坂を上り、やがてヴィリスアーズ邸の門が見えてきた。
夕日が低く差し込みはじめ、街路樹の葉が黄金色にきらめく。
「……もうすぐ到着ですね」
私が小さく呟くと、馬車の中の空気がわずかに引き締まった。
「素敵なお屋敷……」
窓から身を乗り出すようにして、フレイヤ様が声を上げる。
その響きは弾んでいたが、瞳の奥には期待と、ほんのわずかな緊張が宿っていた。
「ありがとうございます。どうぞ、くつろいでいってくださいね」
「はいっ……でも、ちょっとだけ緊張します」
その正直な言葉に、私は笑みを浮かべて軽く首を振る。
「私にとっては、ただの“家”ですから。広いだけで、たいしたことはないんですよ」
「ふふ……きっとティアナ様らしい、あたたかいお家なんでしょうね」
ヴィオレッタ様が微笑みながらそう言う。
その穏やかな眼差しに、胸の奥が自然とほぐれていった。
「それと──屋敷の中で他の使用人たちがいるときは、私のことは“ティアナ”と呼んでください」
「え?」
フレイヤ様は驚いたように目を見開き、ヴィオレッタ様は変わらず穏やかに微笑んでいる。
やがて馬車は門をくぐり、大きな石造りの邸宅が視界に広がった。
澄んだ空と緑に囲まれた我が家──ヴィリスアーズ邸は、夕暮れの光を浴びて静かに佇んでいる。
「──ようこそ、私の家へ。クリスディアの街と同じくらい、気に入っていただけたら嬉しいです」
*
ヴィオレッタ様たちを伴い、屋敷の廊下を進む。
壁には磨かれた燭台が並び、蝋燭の香りがほのかに漂っていた。
自室の前で立ち止まると、リズがノックをして扉を開けた。
「おっそーい!」
そこにいたのは──ジルティアーナ。
頬を膨らませ、軽く私とリズを睨んでいる。
「ごめん、ごめん! お詫びに今度、食べたいもの作ってあげるから」
「ほんと? じゃあ許してあげる!」
怒った顔が一瞬で笑顔に変わった。
そのとき、背後からクスクスと笑う声がする。
「ジルティアーナの姿で、そんな無邪気な反応をされると面白いですね」
「えっ! ミラン……」
ミランダお姉様の声に振り向いたジルティアーナは、ぴたりと動きを止めた。
その後ろには、驚きの表情を浮かべるフレイヤ様と、やはり微笑みを崩さぬヴィオレッタ様が立っている。
「ジルティアーナ様が、もう一人!?」
大きな声を上げたのはもちろんフレイヤ様だ。
その声に、ジルティアーナはびくりと肩を震わせ、不安げに私へ視線を送ってくる。
私は安心させるように、そっとその肩を抱いた。
「大丈夫ですよ──ネージュ様。彼女たちは、ティアナがジルティアーナだと知っておりますから」
ミランダお姉様の言葉に、ジルティアーナ──いや、私に化けたネージュはほっと息を吐く。
「もーっ! だったら最初から言ってよぉ!」
そう言って、また頬をぷくりと膨らませた。
「ごめんね、ネージュ」
「じゃあ、ネージュが食べたいもの、たくさん作ってよ?」
「はいはい」
そんなやり取りをしていると、フレイヤ様が遠慮がちに口を開く。
「えっと……? “ネージュ様”ということは、この方はジルティアーナ様ではない、ということですか?」
「ええ。だから言ったでしょ──ジルティアーナは、ティアナだって」
フレイヤ様は眉を寄せ、しばし私とネージュを見比べる。
まるで答えを探すように、視線が何度も往復した。
「えっと……つまり、こちらのネージュ様は……ジルティアーナ様の影武者?」
「まあ、間違いではないかしら?」
ミランダお姉様が軽く首を傾げながら答える。
私はそこで補足した。
「ネージュは私に変身して、私の“フリ”をしてくれているんです」
「へぇ……」
フレイヤ様は小さく感嘆の息を漏らし、改めてネージュを見つめる。
そのとき──
「でも……ただの影武者ではありませんよね?」
静かな声が、場の空気をすっと引き締めた。
ヴィオレッタ様だ。淡い笑みを浮かべたまま、私の瞳をまっすぐに捉えている。
「ネージュ様へはミランダが敬称を付け、丁寧に対応しています。それに──ティアナ様はそうではない」
ゆっくりと言葉を紡ぎ、わずかに目を細める。
「……ティアナ様と契約した、“精霊様”といったところかしら?」
──すごい。正確には“聖獣”だけど……ほぼ正解だ。
「……お見事です、ヴィオレッタ様」
私は小さく肩をすくめた。
「正確には精霊ではなく、“聖獣”なんですけどね。ネージュは私の守護獣なんです」
「聖獣……!」
フレイヤ様が息を呑み、声を上ずらせる。
「まさか本物にお会いできるなんて……!」
「ふふん」
ネージュは誇らしげに、わざわざ尾を出してぴょこんと揺らした。
「聖獣様が人に変身できるなんて……初めて聞きました」
フレイヤ様はまだ信じられない様子で、ネージュの顔を覗き込む。
「そんなの簡単よ。特に契約者への変身はねっ」
「なるほど……」
ヴィオレッタ様は納得したように頷き、柔らかく微笑む。
「それなら、使用人や周囲の目をごまかすことも容易でしょう」
「うん、簡単だよっ!」
ネージュが胸を張り、場の空気は一気に和らいだ。




