254.隠された友情と破られた約束
ソレーユの花のような笑顔──
その言葉が、胸の中にぽっと温かく灯った直後、その光を打ち消すように、沈黙という名の影が部屋を包んだ。
一陣の冷たい風が吹き抜けたような、静かな衝撃。
誰も何も言わない。ただ、わかっているようだった。
私は、そっと問いかけた。
「……あの事件って、一体、何があったんですか?」
恐る恐る問いかけた私に、フレイヤ様が小さく息を呑む。
そして、ヴィオレッタ様が静かに口を開いた。
「アタマカール殿下は──幼い頃に決められた、私の“元婚約者”でした」
「……!?」
あまりにさらりと語られたその言葉に、私は言葉を失った。
元・婚約者!?
偏見かもしれないけれど、“アタマカール”というあのクセの強そうな名前からして、何やら一筋縄ではいかなさそうな王子様。
そんな相手と、聡明で気品あふれるヴィオレッタ様が……!?
混乱で、頭の中がぐるぐるとかき乱される。
──そういえば、少し前から気になっていたことがある。
ヴィオレッタ様は、ミランダお姉様と同じ年齢なのに、まだ独身だ。
この世界では、日本よりもずっと早く結婚するのが普通だ。
アカデミー在学中に婚約し、成人すればすぐに結婚──それが一般的な流れ。
フレイヤ様のように侍女として働いていれば、結婚が遅れることもある。
でも、ヴィオレッタ様はれっきとした高位貴族の令嬢だ。
そんな彼女が、二十代半ばになっても独身というのは──やはり少し不自然に思えた。
もちろん、お姉様が親しくされている方に、変な人なんているはずがない。そう信じていたし、実際にお会いして確信した。
想像以上に品があり、知性があり、そして柔らかな優しさを湛えた、素敵な方だったから。
だからこそ──納得してしまったのだ。
「ああ、きっとその婚約破棄が、彼女の人生を狂わせたのだろう」と。
ヴィオレッタ様はゆっくりと視線を落とし、過去を辿るように語り出した。
「殿下との婚約は、私たち当人ではなく、親同士の取り決めによるものでした。
けれど、それに不満はありませんでした。
家や国のために殿下を支え、王族として民のために生きること──
それが、上級貴族グレスフォード家に生まれた私の務めだと、幼い頃から教えられてきたのです」
私は思わず息を呑んだ。
いわゆる“政略結婚”。
それを、この方は自分の幸せではなく、周囲のために当然のように受け入れてきたのだ。
私だったら……絶対に無理。
ジルティアーナに婚約者も夫もいなくて、本当に良かった!
心の中で思わず神様に感謝してしまった。
……いや、無宗教なんだけどね。
でも日本人って、なんかあるとつい神頼みしちゃうんだよね。ある意味、国民性。
「フレイヤとは、アカデミー時代からの付き合いなの。
でも色々な事情があって、他の生徒には内緒で仲良くしていたのよ」
ヴィオレッタ様の言葉に、ミランダお姉様が「ええ、卒業パーティーでそのことを知って驚いたわ」と頷いた。
──お姉様でさえ、お二人の関係を知らなかったなんて。
「別に、関係が知られるのを恐れていたわけではありません。
ただ、貴族の中でも立場の違いが大きくて……いらぬ噂を避けるために、人目のない小さな裏庭でこっそり会っていたのです」
ヴィオレッタ様が懐かしそうに目を細める。
フレイヤ様も「楽しかったですね」と笑みをこぼし、ふたりは目を合わせて微笑んだ。
けれど、その柔らかな表情にふと影が差す。
「……そして、そのことはアタマカール殿下にも知られていませんでした」
フレイヤ様がそっと目を伏せて、静かに言葉を継ぐ。
「……だからこそ、殿下は誤解してしまったのです」
ヴィオレッタ様も静かに頷いた。
「ええ。殿下は、私がフレイヤをいじめていると……そう思い込んでしまったのです。
確かに、人目を避けるため、誰かがいる時にはわざと冷たく接していたこともありました」
徐々に、事件の全貌が見えてきた。
「つまり……殿下は、ヴィオレッタ様とフレイヤ様の関係を誤解して、その結果……?」
ヴィオレッタ様は頷きながら、淡々と続けた。
「卒業パーティーの席で、殿下は突然言い放ったのです。
“元平民であり、下級貴族だというだけで、ヴィオレッタがフレイヤに数々の嫌がらせをしていた。
挙句の果てには、階段から突き落とすという殺人未遂まで犯した。
そんな卑劣な人間とは結婚できない”と。
私の名を公然と出し、婚約破棄を宣言したのです」
その言葉に、私は衝撃を受けた。
「殺人未遂……!?」
「ええ、そうよ。今思い返しても、とんでもない話よね。
ヴィオレッタ様が嫌がらせなんてするはずがないし、ましてや殺人未遂なんて……
少し考えれば分かることなのに」
ミランダお姉様が呆れたように深くため息をつく。
フレイヤ様も力強く頷いた。
「本当にそうです!
ヴィオレッタ様が、そんな陰湿なことをなさるはずがありません!
それを……よりによって婚約者だった人が誤解するなんて……!」
「もうっ! 今思い返しても、むかつきますっ!」
フレイヤ様はぷいっと怒って、思わず足を踏み鳴らした。




