252.偏見のその先へ
「では、準備が整い次第──おにぎり屋の商品を何点か、こちらにお持ちしましょうか?」
そう提案すると、ヴィオレッタ様はほんの少し視線を伏せ、けれどどこか楽しげに口元をほころばせた。
「いいえ。せっかくですもの、少し街を歩いてみたいわ」
「……え?」
思わず問い返した私の隣で、フレイヤ様が勢いよく頷く。
「そうそう! ずっと歩いてみたかったんです、クリスディアの街を! 通りの雰囲気とか、においとか、人の声とか──そういうの、実際に肌で感じてみたくて!」
「でも、おふたりがこのままの装いで外に出られるのは……目立ってしまいますし、なにより警備の面でも──」
言いかけた言葉を飲み込むと、ミランダお姉様が肩をすくめ、涼やかに笑った。
「それならお任せを。ちょうどいい衣装を何点か用意してあるの。“平民の富豪”風と、“地元の下級貴族の娘”風、どちらがお好みかしら?」
「ふふ、面白そうね。では……“平民の富豪”、お願いしても?」
ヴィオレッタ様が静かに目を細めて微笑むと、フレイヤ様も元気よく手を挙げた。
「私は“下級貴族の娘”風がいいです! ……って、いつも通りですけどね」
今回のおふたりの滞在は一泊二日。そのためフレイヤ様は侍女としての制服以外に私服を持参しておらず、お姉様が用意してくれた服を借りることになった。
「庶民すぎず、でも動きやすいのが理想です!」
そんなやりとりに、部屋の空気は自然と明るさを帯びていく。窓の外では、焼き菓子を売る屋台からの甘い香りが風に乗って流れ込み、通りのざわめきが遠くから聞こえていた。
ほどなく届けられた衣装は、どれも華美すぎず、品のある仕立てだった。ドレスというよりは、機能性を重視したワンピースに軽やかな羽織を合わせたスタイルで、髪も目立たぬようゆるやかにまとめ直されている。
「……うん、これなら目立ちませんね。本当にお似合いです」
そう伝えると、フレイヤ様はくるりと一回転し、裾をふわりと揺らしてはにかんだ。
「おにぎり、絶対に買いますからね! 二つ……いえ、三つは買います!」
ヴィオレッタ様も肩にそっとベールをかけ、柔らかな笑みを浮かべる。
その姿は、まるで街角に佇む知恵深き女主人。上品さをそのままに、庶民の空気へと溶け込むような、しなやかな気配をまとっていた。
──そのときだった。
コンコンッ。
規則正しいノックの音が響く。空気が、ほんの少し張りつめた。リズが扉を開けると、そこにはレーヴェの姿があった。
お姉様がすっと立ち上がり、彼のもとへと歩み寄る。
「急に呼び出してしまって悪かったわね。こちらのおふたりが、お忍びで街を歩かれる予定なの。護衛をお願いできるかしら?」
そう言って、ふたりに紹介する。
「ヴィオレッタ様、フレイヤ。こちらはティアナの専属護衛、レーヴェよ」
レーヴェは無言で一礼した。表情にはほとんど変化がないが、いつもよりどこか硬い。
クリスディアでも、かつては獣人に対して差別があった。だがレーヴェとステラが領主の側近として過ごして、もう四年以上が経つ。今ではこの街に、そうした偏見はほとんど残っていない。
──けれど、他の場所では、まだ違う。
ふたりに視線を送る。ヴィオレッタ様は変わらぬ微笑をたたえたままだったが、フレイヤ様は驚いたように目を丸くしていた。
「獣人の……護衛ですか?」
ぽつりと呟いたその声に、レーヴェの白い耳がぴくりと動く。
「ええ、見てのとおり獣人よ。レーヴェは“嗅覚”のスキルを持っていて、不審者にはすぐ気づけるから、とても優秀なの」
ミランダお姉様が穏やかに微笑みながら説明を添える。
「下級貴族や平民の富豪が護衛を何人も連れていたら不自然でしょ? でもレーヴェなら、ティアナの護衛として同行するのはいつものこと。それに、ティアナには元冒険者のエリザベスもついているから、まず問題はないわ」
「すごい……」
フレイヤ様は小さく呟きながら、レーヴェの耳をまじまじと見つめていた。けれどすぐに、はっとしたように視線を逸らし、少し頬を染める。
「ご、ごめんなさい。つい……。王侯貴族の獣人の護衛なんて、シルヴィア様たち以外で初めて見たので」
「…………」
レーヴェは微かに目を伏せたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、その耳が再びぴくりと動いたのを、私は見逃さなかった。
「……シルヴィア様?」
リズがそう問いかける。フレイヤ様の言葉から察するに、その方も獣人の護衛を使っているのだろうか。私は胸のざわめきを覚えた。
「シルヴィア様とは……もしかして、シルヴィア王女のことですか?」
リズの言葉に、ジルティアーナの記憶の中にある古い名がかすかに結びついた──。




