249.リュミエールの名のもとに
しんと静まり返った室内に、ヴィオレッタ様の長いまつげが、ゆっくりと瞬いた。
「……まあ」
その声は小さく、けれど確かに驚きと、どこか納得の色を帯びていた。
「その髪色……やはり、ジルティアーナ様。あなたでしたのね」
ヴィオレッタ様は、わずかに首を傾けながら、まっすぐに私を見つめている。
その視線に、胸の奥がざわついた。
脳裏に、ジルティアーナとしての記憶が浮かび上がる。
──まだ幼かった頃。
何度か屋敷で顔を合わせた、ヴィオレッタ様。
年下の私にも分け隔てなく接してくださった、やさしく気品ある“憧れのお姉様”。
けれど、今こうして向き合っているのは、“ジルティアーナ”ではなく──
彼女の身体に宿ってしまった、異邦の魂である“私”。
あの頃の記憶は確かに私の中にある。けれど、それを「自分の思い出」として語ることに、どこか後ろめたさを覚えてしまう。
ヴィオレッタ様が静かに私の前に歩み寄り、懐かしそうに目を細めて言った。
「まだ貴女が幼かった頃、何度かお話ししたことがあるのだけれど……覚えていますか?」
「はい。お久しぶりです……ヴィオレッタ様」
私は精一杯の笑みを浮かべながら答えた。
その言葉に偽りはない。
けれど──どこか、胸が痛んだ。
それを察したように、ミランダお姉様がやわらかな声で言葉を添えた。
「領主でありながら、“街の人々と直接関わりたい”──それが、この子自身の意志です。
そのため、普段は本来の身分を伏せ、“ジルティアーナの側近”という設定で、“ティアナ”として私と共に商会を営んでおります」
そして、やさしい眼差しで私を見つめ、静かに言った。
「私は……そんなティアナを誇りに思っていますわ」
その言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。
「ミランダお姉様……」
思わず視線を落としそうになったけれど、私はぐっと気持ちを引き締めて、再びヴィオレッタ様をまっすぐに見据えた。
「……今回のご訪問にあたり、偽りのままでお迎えするのは、違うと思いました。
お二人を迎えるのにふさわしい姿で──正直に、お話ししたかったのです」
それが、“ジルティアーナ”としての責任であり、
“ティアナ”として生きることを選んだ私の、けじめだった。
私の言葉を受けて、室内には再び静寂が降りた。
ヴィオレッタ様はまるで私の奥底を見通すように、静かなまなざしでしばし私を見つめていた。
やがて──
「……ずっと、気になっていたのよ」
その声には、やわらかさと、にじむような思いが宿っていた。
ヴィオレッタ様は視線をミランダお姉様に移し、そっと続けた。
「ミランダが突然、ウィルソールの街から姿を消して……フェラール商会の看板からも、名前が消えた。
あなたから“事情は問わず、今後も商会を支えてあげてほしい”と言われて──その言葉を信じて、私はずっと商会との契約を続けてきたわ」
そこで一度、言葉を切る。
ヴィオレッタ様の瞳が、かすかに細められる。
「でも間もなく……新しい“妻”が現れて、そして……すぐに子どもが生まれたのよ」
──ああ、やっぱり。
心の中で、私は小さく息を吐いた。
貴族社会では、そういった“再婚劇”も、さして珍しいものではない──らしい。
けれど、それが“婦人向け商品”を主に扱う商会の主であれば、話は別だ。
“女性のための商品”を売るその商会の当主が、自分の妻をあっさりと取り替えるなんて──
なんとも皮肉で、愚かしい話だ。
きっと、呆れたのはヴィオレッタ様だけではない。
「フェラール商会での仕事を、ミランダがどれほど真剣に、誠実に取り組んでいたか……私は、ずっとそばで見ていたのよ。
だからこそ、何も言わずに身を引いたと知ったとき……フレイヤと、本当に心配したの」
その言葉に込められたやさしさと憤りが、まっすぐ胸に届いた。
ヴィオレッタ様は、ミランダお姉様を「有能な商人」としてだけではなく、一人の女性として、心から信頼していたのだ。
そのまなざしは、静かに、しかし力強く──この空間の空気を揺らしていた。
そして──ふっと、やわらかな微笑みがその唇に浮かぶ。
「でも……よかったわ」
厳しい表情が解け、ほんのりとやさしさが滲んだ瞳で、ミランダお姉様を見つめる。
「貴女がこのクリスディアの街で、新たにリュミエール商会を立ち上げたと聞いて……本当に、ほっとしたの。うれしかった」
「……ヴィオレッタ様……」
ミランダお姉様が静かに、目を伏せた。
その声ににじんだ感情が、私の胸にもそっと響いた。
そして──
「それにしても、まさか……ジルティアーナ様と一緒にやっているなんてね」
ヴィオレッタ様は軽く微笑しながら、少しだけ冗談めいた口調でそう言った。
「商会のことも驚いたけれど、あの時のことがずっと心に残っていたのよ。
──“離縁しても、実家には戻らない”。そう言った貴女の、あの時の覚悟に満ちた表情が……忘れられなくて」
目を細めながら続けるその口調には、懐かしさと敬意とが入り混じっていた。
「だから、余計に……心配だったの。でも、今日こうしてお会いできて、本当に安心したわ。貴女は今、自分の足で立っているのね」
「……ありがとうございます」
ミランダお姉様が、そっと微笑む。
その顔には、かつての痛みを抱えながらも、今をしっかりと歩む彼女の姿があった。
それを見ているだけで、私の胸にも、あたたかな光が灯るようだった。




