245.沈む船、渡る舟
この夏に発売予定のマニキュアのサンプルを確認し終えたギルベルトさんは、ひと息ついて、静かに言葉を紡いだ。
「……今回の夏の新作も、素晴らしいですね」
そのひと言に、開発を手がけたアイリスさんは、ほっと肩の力を抜き、安堵の息をこぼす。
ミランダお姉様は、どこか誇らしげに微笑んだ。
「当然でしょ。今回の新作からは、シエルも本格的に加わってくれてるんだから」
そう言って、サンプルを手際よく片付けていたシエルさんに視線を送ると、彼女は自信に満ちた笑顔で頷いた。
──その様子を、ギルベルトさんはじっと見つめていた。
どこか眩しそうに、そして、ほんの少し寂しげに。
しばらく沈黙が流れたあと、ぽつりと彼はつぶやいた。
「……今でもこうして、新作に立ち会えているのが、不思議に思える瞬間があります」
その言葉に、ミランダお姉様が静かに頷いた。
「私たちも同じよ。あなたが、今もリュミエールに協力してくれていること……心から感謝してるわ」
「いえ……感謝されるようなことはしていません。むしろ、こちらのほうこそ、助けられてばかりです」
「ギルベルト」
名を呼ばれて顔を上げると、ミランダお姉様は少し困ったような、けれど温かな微笑みを向けていた。
「──ごめんなさいね。私たちに続いて、シエルもいなくなって……あなたには、相当な負担をかけてしまってるわね」
ギルベルトさんは、そっと首を横に振った。
「やめてください。ミランダ様が謝ることではありません」
きっぱりとそう言い切ると、彼は目を伏せ、少し沈んだ声で続けた。
「……シエルさんが抜けたあと、現場の責任者を立てました。でも──当然ながら、彼女のようにはいきませんでした。
些細な調整で混乱が起き、顧客対応も後手に回り……今は、まるで綱渡りのような日々です」
気まずそうに視線を落としたシエルさんに、ギルベルトさんは柔らかく言葉を添えた。
「シエルさんが一年近くも猶予をくれたのに……その間に後任を育てられなかった私が不甲斐ないんです」
「……そうね。でも、それも無理のないことよ」
ミランダお姉様は、少し皮肉を込めた調子で言った。
「どうせ──本来商会長がやるべき仕事を、全部あなたが背負っているのでしょう?」
その言葉に、ギルベルトさんの動きが一瞬止まる。
代わりに、シエルさんが深く頷いた。
「はい。その通りです。ミランダ様が抜けた後、その穴埋めをしていたのは、実質ギルベルト様だけでした。
……それなのにあのローランドは、ミランダ様が行っていた業務を何ひとつ引き継がず、あの女の世話ばかり焼いて──元々の自分の仕事すらおろそかになっていて……」
言葉の端に怒気をにじませながら、シエルさんは呆れたように肩をすくめた。
「しかも、ローランド以上に──ロゼットが何もしないんです」
少し言葉を切ってから、怒りを抑えきれずに続ける。
「……いえ、何もしないだけなら、まだいいんです!
たまにローランドが真面目に仕事をしようとすると、“私と仕事、どっちが大事なの?”なんて言い出して……本当に、邪魔しかしないんです!」
──まさに典型的な、“面倒くさい妻”。
日頃の鬱憤が一気に噴き出したのか、シエルさんは気づけば商会長夫妻を呼び捨てにし、怒りをあらわにしていた。
「まぁまぁ」とアイリスさんがなだめていたが、ギルベルトさんは静かに頭を抱える。
「……ギルベルトさん?」
思わず声をかけると、彼は深く息を吐いて、ゆっくりと顔を上げた。
「……本当に……シエルさんの言う通りです。せめて、何もしないでくれれば、まだよかったのですが……」
部屋の空気がぴたりと静まる。
みんなの視線が彼に集中する中、ギルベルトさんは私とお姉様を見据え、口を開いた。
「──ミランダ様、ジルティアーナ様。
……恥を忍んで、お願いがございます」
私とお姉様は顔を見合わせる。
私が頷くと、お姉様が姿勢を正し、静かに応じた。
「……何かしら?」
ギルベルトさんは、深く頭を下げた。
「フェラール商会の顧客を──一件、リュミエール商会で引き受けていただけませんか?」
一瞬、耳を疑った。
……顧客を譲る?
こちらにとってはありがたい話だが、フェラール商会にとっては損失以外の何ものでもない。
なぜ、そんな提案を?
そう思っていると、ミランダお姉様が冷静に尋ねた。
「その顧客というのは──どなたのことかしら?」
ギルベルトさんは、緊張を滲ませながら唾をのみ込み、やがて静かにその名を告げた。
「……それは──グレスフォード家です」




