242.幸せだったと言えるように
「──私ね、ずっと、自分の“居場所”が欲しかったの」
私はそっと顔を上げて、隣に座るお姉様の顔を見る。
お姉様はまっすぐ前を見据えたまま、何かを思い出すように遠くを見つめながら、静かに言葉を続けた。
「子どものことより、自分を美しく見せることや、男の人との関係ばかりを気にしていたイザベル──お母様。
あの人がローガン様と再婚したとき、私はもうすぐ成人を迎える十四歳で、まだアカデミーに在籍していたの。
卒業後、一度はヴィリスアーズ家に身を置いたけれど……そこに、私の居場所なんてなかったわ」
「……」
その話は、私がジルディアーナとして生きるようになってから、リズにヴィリスアーズ家のことを尋ねたときに聞いたことがある。
けれど、それはあくまでも第三者であるリズの視点からのもので、お姉様ご本人の気持ちまでは分からなかった。
でも今、こうして直接聞いてみると──やはり、予想していた通りだった気がする。
「私は、早くヴィリスアーズ家を出たかった。
そんなときに出会ったのが、ローランドだったの。
“フェラール商会を一緒に支えてくれるパートナーを探している”って聞いて……私はその話に飛びついたわ」
私はお姉様の横顔をじっと見つめながら、黙って耳を傾けた。
お姉様はちらりと私に目を向け、目が合うと、かすかに苦笑した。
「普通の令嬢たちは、ローランドの条件を聞いたとき、“妻を使用人のように働かせるなんて”って敬遠していたけれど、私にはむしろ都合がよかったの。
私は、自分の性分として、ただ家を守るだけの“奥様”には向いていないと思っていたから」
そう言ってから、お姉様は小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「でも……そんなふうに始まった関係だから──
きっと、罰が当たったのね」
「そんなっ!」
思わず声が出てしまった。
罰だなんて……どうして、そんなふうに。
たしかに、恋愛感情のない結婚だったかもしれない。
けれど、貴族の結婚なんて、たいていは家と家とのつながりが優先されて、当人たちの気持ちは後回しにされるものだ。
親同士が勝手に婚約を決めることだって、珍しくない。
それに比べれば──たとえ打算があったとしても、本人たちの意志で選んだ関係なら、それはむしろ強い絆に思えた。
胸の奥がぎゅっと痛む。
言葉がうまくまとまらなかったけれど、黙ってなんかいられなかった。
「それは違います……! お姉様は、ご自分の道を選ばれただけです。
それに、フェラール商会をここまで支えてこられたのも、お姉様の努力と覚悟があったからこそで……っ」
震える声でそう言いながら、私はお姉様の手をぎゅっと握った。
「罰なんかじゃありません……! お姉様は、間違ってなんかいない!
私は、ずっとそう思っています!」
お姉様は少し目を見開き、私の顔をまっすぐ見つめた。
その瞳に、驚きとも戸惑いともつかない色が浮かび──やがて、ふっと優しく微笑んだ。
「……ありがとう、ティアナ。
あなたにそう言ってもらえると……救われる気がするわ」
その言葉に、私は黙ってうなずいた。
静かな時間が流れる。
けれど、それは重く沈んだ沈黙ではなかった。
お互いの心が、少しずつ寄り添い、温め合うような、やわらかな時間だった。
やがて、お姉様がふと目を伏せ、小さく息をついた。
「……本当はね、ずっと誰かに言ってほしかったのかもしれないの。
“あなたは悪くない”って。
でも、それは甘えだと思って……自分に言い聞かせてきたわ。
“自業自得よ”って、“自分で選んだ道なんだから、受け入れるしかない”って……」
その声には、かすかな震えがあった。
私はそっと、お姉様の手をさらに強く握った。
たとえ言葉にできなくても、この手の温もりで、少しでも気持ちが伝わればいい──そう願いながら。
「これからは……お姉様が、ご自分のために生きられるように。
私、ずっとそばにいますから」
そう伝えると、お姉様は目を潤ませながら、静かに笑った。
「……ありがとう」
その笑顔につられるように、私も自然と笑みがこぼれる。
そしてふたりで静かに笑い合うと、お姉様はふっと明るい表情になって言った。
「そうね、あなたの言うとおり、罰なんかじゃない。──ローランドとの結婚は、幸せになるためのきっかけだったんだわ」
「……お姉様?」
思いがけない言葉に、私は思わず問いかけていた。
「最後はあんな形になってしまったけれど……ロゼット嬢と出会う前までは、少し頼りないところはあってもローランドは良い夫だった。
そして何より──フェラール商会での仕事は、私の生き甲斐だったの」
話の意図がすぐにはつかめず、私は何も言えなかった。
ただ、繋いでいた手に、ぎゅっと力を込めることしかできなかった。




