239.ロゼ・カラーと微笑みの裏側
「あなた方は、自らの利益のために人を傷つけ、正当な権利を踏みにじった。──その“代償”は、必ず支払っていただきます」
ミランダお姉様の毅然とした言葉に、立ち上がっていたトインビー商会長は、力なく椅子に崩れ落ちた。
その隣でロゼットは、膨らみ始めたお腹に手を添え、ただ俯いている。
「……販売くらい、させてあげてもいいんじゃないですか?」
ぽつりと私が呟くと、場の空気がぴたりと静まった。
一斉に向けられた視線を受けながら、私は頬に手を当てて首をかしげる。
「今やマニキュアは、フェラール商会でも予約が殺到するほどの人気商品。製造は急ピッチで進めていますが、それでも需要には追いつかず、通常販売は困難な状況です。おそらく、トインビー商会も同じでしょう?」
私の問いに、トインビー商会長は小さく何度も頷いた。
「そんな商品を突然取り上げられては、売上はもちろん、お客様からの信頼も失ってしまいます。それに加えて慰謝料の支払い……正直、少し気の毒に思えてしまいますね」
「ジルティアーナ様……っ!」
思わぬ援護に、トインビー商会長は祈るように両手を組み、私を見つめてきた。
──今の彼の目には、私が“救いの女神”にでも見えているのかもしれない。
私は口元が緩むのを、手にしたハンカチでそっと隠した。
「ですが、トインビー商会長。私たちの気持ちも、どうかご理解ください」
そう前置きして、私は少し目を潤ませ、柔らかな声で語りかける。
「爪紅よりも華やかで、誰もが手軽に指先を輝かせられるように──そう願って、私たちはマニキュアを生み出しました。子どもを持たない私たちにとって、この商品はまさに“我が子”のような存在です。それを、私たちの知らぬ間に勝手に売られていたなんて……許しがたいことなのです」
やましさを抱える親子は、気まずそうに視線を落とし、言葉を失っていた。
「ですから、私たち姉妹と無関係なトインビー商会に、無償で販売許可を出すわけにはまいりません。ただし、爪紅と同様に、正当な“使用料”をお支払いいただけるのであれば──話は別です」
「もちろんでございます! ぜひ、引き続き“マニキュア”の販売を続けさせてください! 何卒、よろしくお願いいたします!」
トインビー商会長は勢いよく頭を下げた。
私は微笑を浮かべ、ややゆっくりと口を開く。
「“ロゼ・カラー”の名前のままで構いません。今さら名称を変更すれば、かえって不要な憶測を招くでしょうし……」
その言葉に一番に反応したのは、ロゼットだった。
表情を抑えようとしているのは分かったが、口元に安堵の色がにじんでいた。
「では、今後二年間、トインビー商会で“ロゼ・カラー”を販売する際の使用料はこちらになります」
私が合図すると、リズが一枚の契約書をトインビー商会長の前に差し出した。
書面に目を通した彼は、目を見開いたが──すぐに納得したように頷いた。
「これは……っ! たしかに高額ですが、ロゼ・カラーの人気を考えれば、むしろ安いくらいですな……!」
彼はその場で“使用許諾契約書”にサインし、私のもとへ差し出した。
私は記された署名を確認し、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「契約は、これで正式に成立しました。今後、私どもとトインビー商会が関わることはないかと思いますが──貴商会のご発展を、心よりお祈りいたします」
私の言葉で、静かに審問は締めくくられた。
*
トインビー親子が退席し、その場に残った私たち。
最初に口を開いたのは、ギルベルトさんだった。
「どうして……マニキュアの販売を許可したんですか?」
私は彼の方を振り向く。彼は、苦虫を噛み潰したような顔で言葉を続けた。
「さっき、ジルディアーナ様が仰っていたように、マニキュアはあなた方にとって、我が子のように大切なものなんでしょう? なのに、それを……」
「ギルベルトさん。“マニキュア”ではなく、“ロゼ・カラー”ですよ?」
私が小首をかしげて返すと、ギルベルトさんはむっとして眉を寄せた。
「……なんでそんな名前で呼ばなきゃいけないんですか? 開発したのはあなたたちで、名前も勝手に使われてたんでしょう? だったら堂々と“マニキュア”として売るべきじゃ──」
「ふふっ」
思わず吹き出してしまった私に、ギルベルトさんはぽかんとした表情を見せた。
「そんなに怒らないでください。“ロゼ・カラー”の名前は、あくまで現時点の話。今、彼らがすでに販売している分だけ──“特別に”認めただけです」
「……え?」
「つまり、“現在流通している商品に限って”の使用許諾ですよ」
今度は隣にいたアイリスさんが、さらりと補足した。
「これからフェラール商会で展開される新たなマニキュアの新色やシリーズについては、当然ながら、トインビー商会には一切の権利がありません」
そう言って、アイリスさんはそっと小さな木箱をテーブルの上に置いた──。




