237.その選択の代償
ローランドが沈黙を貫く中、私は新たな書類を一枚取り出し、机の上に差し出した。
「こちらは、ミランダ様と私で作成した“離婚条件書”です」
その瞬間、ローランドの表情がわずかに強ばった。
「……条件?」
「ええ。婚姻関係を一方的に破棄した側として、相応の責任を求めるのは当然のことです」
私は感情を込めすぎぬよう、淡々と読み上げる。
「まず一つ目──ミランダ様の名誉の保全。
彼女はすでにフェラール商会の経営からは退いておりますが、ミランダ様の功績と名は、今後も正式に記録されます。
その功績を貶めるような言動があった場合には、契約違反として告訴いたします」
「……それは、当然です」
ローランドは短く答えたが、私は彼の横顔のさらに奥──怯えるように俯くロゼットの姿から視線を外さなかった。
「次に、“離婚一時金”について。
これはフェラール家が一方的に裏切ったことによる損害と、精神的被害に基づいて算出した金額です」
「それは……具体的にいくらなのですか?」
トインビー商会長が警戒するように問いかける。
「詳細は書面に記載しております。ご確認ください。
なお、これは貴族間の正式な離婚契約に準ずる内容ですので、拒否された場合は“公的告発”へと移行いたします」
「……っ」
トインビー商会長は書類を手に取り、記載された数字に目を走らせた。
顔から血の気が引いていくのが、誰の目にも明らかだった。
その様子にロゼットもさらに身を縮こまらせる。
「最後に──本離婚に際し、ミランダ様はすべての財産権と権利を放棄いたします。
ただし、“今後一切の接触を禁ずる”という条件を明記しております。
ローランド様、貴方はどのような立場になろうとも、再びミランダ様に関わることはできません」
その言葉に、ついにギルベルトが口を開いた。
「……兄上、本当に……そこまでしてロゼット嬢と結婚したいのか?」
ローランドはゆっくりと弟に視線を向ける。
「ギルベルト。もう……後戻りはできない。
ミランダのことは“家族”として大切だったが──女性としては愛せなかった。
……だが今は分かる。私はロゼットを心から愛している。そして、彼女のお腹には私の子がいる。
これからは、その家族を守って生きていきたい」
「ローランド様……っ!」
ロゼットが涙ぐんだ声を漏らす。
──……なんだこれは。
ミランダお姉様を“悪役令嬢”にでも仕立て、自分たちは悲劇のヒーローとヒロインのつもりなのだろう。
……その勘違い、周囲を巻き込むのはやめていただきたい。
思わず頭を押さえそうになるが、代わりに目を細めて彼らを見据える。
そのとき、ギルベルトが言葉を発した。
「……兄上、何を言ってるんだ!
あの人がどれほど兄上や家のために尽くしたか、俺は知ってる!
フェラール商会を支えるために、自分の時間も感情も犠牲にして……それを裏切ったんだぞ!」
私はその言葉を聞き、胸の奥で少しだけ安堵した。
──ギルベルトさんは、お姉様の味方でいてくれたのだ。
だが、私のほっとした気持ちを打ち砕くように、ローランドが静かに呟いた。
「……感謝はしている。だが、愛情はなかった」
その一言に、背筋が冷たくなる。
「……なら、最初から結婚などするべきではなかった!」
ギルベルトが私の代わりに怒りを爆発させた。
私の怒りも、もはや限界に達していた。
椅子が軋む音も気にせず立ち上がり、きっぱりと告げる。
「本日の議事は、これにて終了いたします。
契約書への署名は後日正式に執行し、その内容および経緯については、私の名において領内に正式に通達いたします」
一息で言い切った後、私は冷ややかな視線で一同を見渡した。
「ローランド様。貴方の意志は理解しました。
ですが──その選択の代償は、必ずお支払いいただきます」
笑みを浮かべながらも、その目には決して情けを許さぬ強さを宿して、私は彼らを見つめた。
手を繋いでいたローランドとロゼットの手が、気まずそうに離される。
その時、トインビー商会長が焦ったように声を上げた。
「ジルティアーナ様、私は……っ!」
「私は、“最も悪いのはローランド様”だと考えています」
私が穏やかに言うと、彼はホッとした様子で頷きかけ──しかし、私は続けた。
「ただし、貴方が既婚者であると知っていて娘を紹介した事実を、私は忘れていません」
言葉とは裏腹の冷笑を浮かべながら、私はロゼットに視線を移す。
彼女は身を震わせ、ローランドの背後に隠れるように身をすくめた。
「幸い、ミランダ様にはお子様がいらっしゃいません。
だからこそ、これからは心穏やかに、クリスディアの地で過ごしていただきたいと願っています」
その言葉にトインビー商会長は青ざめ、ロゼットはまだ平らな腹に手を当てて小さく震えた。
「あなたたち親子には、心より“感謝”申し上げます。おかげで、ローランドの本心を知ることができました。
ただし──ミランダ様を傷つけたことの責任は、別途お支払いいただきます。
慰謝料などの詳細については、追ってご連絡いたします」
「なっ、それはローランド様が──!」
「申し上げた通りです。最も悪いのはローランド様。
ですが、貴方方親子も──私は決して許しません」
私が鋭い視線を向けると、トインビー親子はまるで凍りついたように沈黙し、目を伏せた。
私が背を向けてその場を去ろうとしたとき、再びギルベルトが声を上げた。
「兄上……俺は、ミランダ様に謝りたい。
何も知らずにあんたの肩を持っていた自分が恥ずかしい。
俺は兄上と違って──“人として”、あの方に敬意を払いたいんだ!」
その言葉に、ローランドは何も返さず、ただ黙り込むばかりだった。
──背後に残るのは、うなだれるトインビー親子と、唇を噛みしめて頭を下げるギルベルト。
私は、静かに部屋を後にした。




