234.爪先に宿る、決意と誓い
……駄目だ。一旦落ち着こう、私。
目の前に置かれた紅茶をひと口──と口にした、その瞬間。
ミランダお姉様から、さらなる爆弾が投下された。
「しかも、不倫相手に……子どもができたらしいの」
「……ぶはっ!」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
そしてタイミングの悪い私は、見事に紅茶を吹き出した。
リズがすっと差し出したハンカチで慌てて口を拭き、テーブルを拭いてくれた彼女に感謝しつつ、新しい紅茶がそっと置かれる。
「証拠はないけど、最近その女性、体調を崩してるんですって。でも、様子はむしろ幸せそうだったって……」
言いかけて、ミランダお姉様は小さく息をつき、口をつぐんだ。
「私はね、あの人のこと、好きだったわ。でも、“愛していた”って言えるかどうかは……正直、自信がない。
結婚したときから、私の中でいちばん大切だったのは、フェラール商会だったから」
ミランダお姉様はまっすぐ前を見据え、静かに語る。
その目に迷いはなかったけれど、ふと伏せたまつげが揺れた。
「もちろん、嫁いだからには家庭のこともしっかりやるつもりだった。子どもは……なかなかできなかったけど、努力はしてきた。
子どものことで心無い声もあったけど、私はその分、家の経営に力を尽くしたつもりよ。
経営に力を注いで、夫を支えるのも務めのひとつだと信じてた。
……けれど、そんな私の想いは、彼には届いていなかったのよ。私の知らないところで、別の未来を築こうとしてたなんて──滑稽だと思わない?」
ぽつりとこぼれる言葉が、胸に刺さる。
「だから……私、出てきたの。ただ一枚、置き手紙を残して」
「お姉様……!」
気がつけば、私はミランダお姉様の手をぎゅっと握っていた。言葉は出てこなかった。ただその手を通じて、想いだけがあふれた。
……でも、フェラール商会は?
たった今、「子どもより大切」と言っていたのに、その大切な場所さえも手放して……?
私は顔を上げ、お姉様の隣に座るアイリスさんに目を向けた。
「アイリスさんも……一緒に?」
「はい。ミランダ様の決意は、私が誰より理解しています」
その静かな言葉に、私は深くうなずいた。
「……もう、戻るつもりはないんですね?」
リズが問いかけると、お姉様はしっかりと頷いた。
「ええ。戻っても、私は“余計な存在”にしかならない。それなら……自分の足で立ちたい」
「……強いですね、お姉様」
「強くなんてないわよ。怖かったし、今も怖い。でも……誰にも言わずに泣いているくらいなら、あなたたちに会いたかった」
ようやく見せた笑顔は、ほんの少し涙でにじんでいた。
「ここに……いてもいいかしら?」
「もちろんです!」
私は即答した。迷う理由なんて、ひとつもない。
あまりの勢いに驚いたのか、お姉様はふっと笑った。
「ごめんね。住むところを見つけたら、すぐに出ていくから……」
「何を言ってるんですか?」
私はその手にぎゅっと力を込め、お姉様の紫の瞳をまっすぐに見つめる。
「お姉様さえよければ、ずっとここにいてください。遠慮なんてしないで」
そのあと、お姉様と重ねられた私の手元に目を落とした。
指先に施されたそれぞれのネイルが、淡く輝いている。
──この輝きこそ、私たちが共に歩いてきた証。
最初は、爪紅すら斬新な商品だった。でも、その施術はやや難しく、頻繁に使えば色素沈着するなどの課題もあった。
その課題を解決したのが、私が異世界から持ち込んだ“マニキュア”。
【錬金術】で試作するのは容易でも、安定して大量生産するには、誰でも再現できる方法が必要だった。
そこで力になってくれたのが、お姉様とアイリスさんだった。
材料や工程を改良し、量産可能な仕組みを整えてくれた。商品化後も、丁寧な宣伝活動で“ネイル”を人々に広めてくれたのだ。
一緒に悩み、工夫し、支え合ってきた──その積み重ねが、今、ここにある。
「私は……お姉様の本当の妹じゃないけど、この世界で唯一の“家族”だと思ってます」
私はにっこり笑って言った。
「今日はゆっくり休んでください。明日からのことは……明日、一緒に考えましょう」
「……ありがとう、ティアナ」
お姉様はそっと、私の手を握り返してくれた。
その手の温かさに、私はようやく心の底から安心した。
──それと同時に、心の奥底に、黒い感情がゆっくりと芽を出す。
お姉様は、私たちの前では気丈に振る舞っていた。
けれど、その笑顔の隙間からにじみ出る悲しみは、どうしたって見逃せなかった。
……本当は、泣き叫びたいほど、悔しくて、悲しかったはずだ。
それでも誰にも弱音を吐かず、ひとりで耐えて、笑ってみせるお姉様。
そんな姿を、私は、見ていられなかった。
私にとって、ミランダお姉様は──たった一人の、心から「家族」と呼べる存在だ。
この世界ではもちろん、前世ですら、私は「家族」と心を通わせた記憶がほとんどない。
だからこそ、お姉様の存在は、私にとって何よりも大切で、かけがえのないものだった。
そんなお姉様を、あんなふうに傷つけた人間がいる。
私の知らないところで、誰よりも努力して、誰よりも誠実に家族を守ろうとしていた人を──
裏切り、見下し、勝手に別の未来を選んだ、最低の男がいる。
ローランド。
……絶対に許さない。
お姉様が許したとしても、私は許さない。
絶対に、あんたを笑って済ませたりしない。
お姉様の涙を、裏切りを、嘘を、私は見過ごさない。
私にできる最大限の力を使って──
あんたにとって、人生で一番厄介な“義妹”になってやる。
静かに、確かに燃える怒りを胸に抱えながら、私はそっともう一度、お姉様の手を握った。
──次は、私の番だ。




