232.込めた願い、手放した光
───数ヶ月前のこと。
「……ふーん。これが“磁石で模様が動くネイル”? ずいぶん面白い仕掛けね」
ミランダお姉様がそう言って、私が差し出したネイルチップを光にかざしたとき、私は確信していた。
──これは、きっと形になる。
チップの表面には、角度によってきらめきがスライドするような模様が浮かび上がっていた。前世で「マグネットネイル」と呼ばれていた、それをこの世界で再現しようとしていたのだ。
「はい。ネイル液に微量の金属粉を混ぜていて、乾く前に磁石を近づけると……こうなります」
私は実演してみせた。塗りたてのネイルに磁石をそっと近づけると、光が誘われるように動き、繊細な模様が浮かび上がる。
「動きました……っ!」
思わず声を上げたのは、隣で道具を並べていたシエルさん。目を輝かせて、食い入るように見つめている。
「模様の形って調整できるの? ラインとか、渦巻きとか」
「理論上は可能です。磁石の形や角度にコツが必要ですが……ライン状やフレンチなら、わりと簡単ですよ」
「ふむ……これ、貴族層にウケるわ。特に舞踏会のシーズンには、話題になること間違いなしね」
ミランダお姉様が腕を組んで頷く。その姿は、自信と先見性に満ちていた。
それからは開発が一気に加速した。
アイリスさんは錬金術の知識を活かし、金属粉が沈まない安定したベース液を試作。ミランダお姉様は模様操作用の磁石をいくつも設計し、シエルさんは実際に塗って改良点を洗い出していく。
私はというと、前世の使用感と記憶を頼りに「もう少し粘度を落として」「乾くまでの時間を延ばしてみて」と、口を出し続けた。
そして、ついに完成した。
──現在。
「ねえ、ギルベルト。このネイル、どう思う?」
ミランダお姉様がグラスを置き、すっと指先を差し出す。
深いボルドーのネイルに、角度を変えるたび光のラインが滑るように流れる。それはまるで、爪の上に小さな宝石が揺れているようだった。
「……これは……模様が、動いている……!?」
ギルベルトさんが目を細め、じっと見つめる。
「“マグネットネイル”。ティアナの発案で、私たちが一緒に作ったのよ。初めて見るでしょ?」
「……たしかに。ただの塗装ではないですね」
ミランダお姉様はさらりと微笑んだ。
「まだ発売前だけど、私とティアナはすでに使ってるの。上層の貴族夫人からも問い合わせが来ているわ。……流行の兆しってところかしら」
「……ふむ。“他人と違うもの”を好む層には、確かに刺さるでしょうね。この“動く輝き”は唯一無二です」
まじまじと見つめるギルベルトさんに、ミランダお姉様はいたずらっぽく唇をゆがめた。
「ふふ。ねぇ、ギルベルト。あなたもこのネイル、扱ってみたいんじゃない?」
「……扱わせてくれる気などないくせに。意地悪なことをおっしゃいますね、ミランダ様」
「まあ、あなた個人には恨みはないもの。……辞めるなら、いつでも協力してあげるわよ?」
ぞくりとするような微笑を浮かべて、さらりと告げるミランダお姉様。
──本当にこの人、怖いくらい抜け目がない。
私は思わずグラスを傾け、心の中で小さく頷いた。
現在、ミランダお姉様はウィルソールではなく、ここクリスディア──ヴィリスアーズ邸に暮らしている。
それは、ギルベルトさんの兄──ローランドさんと正式に離縁したからだ。
──一時間ほど前。
ミランダお姉様が現れる少し前、私はギルベルトさんと久しぶりに言葉を交わしていた。
「……まったく、今のフェラール商会は見る影もありませんよ」
その声に怒りはなかった。ただ、深く疲れたような響きだけが残っていた。
「商会主の名は兄、ローランドのままですが……実際に商会を動かしていたのはミランダ義姉……いえ、ミランダ様でした。
実務も、取引も、人材管理も──兄はただの“顔”でしかなかった」
私はただ、黙って耳を傾けていた。
「従業員たちも、皆ミランダ様を慕っていたんです。強くて、冷静で、でも公平に評価してくれる人でしたから。
……けれど兄は、それに甘えすぎていました」
ギルベルトさんの表情がわずかに歪む。
「すべて任せきりで、自分は“表向きの顔”だけを整えて……その裏で若い娘と関係を持ち、子どもまで作った。
挙句に“第2夫人として迎えたい”と、堂々と言い出したんです」
私は言葉を失った。
「でも、ミランダ様は騒がず、“離縁したい”とだけ言って、静かに家を出て行きました。何も持たずに」
一呼吸おいて、ギルベルトさんは続けた。
「開発部門の要だったアイリスはミランダ様と共に姿を消し、半年ほど前には販売の柱だったシエルさんまでミランダ様の元へ……。
他にも、何人もの従業員が去っていきました」
目は、遠くを見つめていた。
「新しい奥様は、従業員を“使用人”としか見ておらず、現場との関係も最悪です。兄も今や、かつてのように“商会主”とは呼べない」
私は何も言えなかった。ただ、彼の語る苦悩が、胸に静かにしみていく。
「──ティアナ様」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
そこにいたのは、笑ってはいるけれど……幸せとは程遠い顔だった。
「……本当は、実は僕も辞めたいと思ってるんです」
その言葉に、私は少し目を見開いた。
「けれど、誰かが残らなければ、兄の“虚勢”だけで商会は崩壊します。
あの人は、自分が何も支えていないことに、いまだ気づいていませんから」
「ギルベルトさん……」
「……正直に言えば、羨ましいんです。ミランダ様も、シエルさんも、あなたも──自分の意思で動いて、前へ進んでいる」
その声は、かすかに震えていた。
「僕はずっと“家のため”に、兄の後ろを歩いてきました。それが当然で、仕方ないことだと……そう思おうとしてきました。
でも……もう、限界かもしれません」
そう言って、彼は静かに天井を見上げた。
私はそんなギルベルトさんを見ながら、一年半ほど前のことを思い出した──。




