226.その言葉の責任
教室が終わり、ステラが部屋を出てきた。
「ステラ」
レーヴェがやさしく名前を呼ぶと、ステラは先ほどまでの“先生の顔”から一転、
いつもの甘えた表情になって駆け寄ってきた。
「ティアナ様、お兄ちゃん! 最後まで見ててくれたんですか?」
にこにこと、まるで何ごともなかったかのように笑うステラを、私は思わず抱きしめた。
「ティアナ様?」
「……偉かったね、ステラ。がんばったね」
そう告げて体を離すと、ステラは赤い瞳をまるくして私を見上げていた。
レーヴェも、ぽんっとステラの頭に手を置き、
「かっこよかったぞ、ステラ」と、呟くように言った。
ステラは、くしゃりと笑った。
「やめてよ、ふたりとも……せっかくかっこよく先生やったのに、泣きたくなっちゃうよ……」
──そのときだった。
「ステラっ!……先生!」
その声に振り向くと、そこには──さっきの少年。
彼はとぼとぼとこちらへ歩いてきたが、数歩手前でぴたりと立ち止まり、体を強張らせた。
ちらりと向けたその視線の先には、斜め上から睨むレーヴェの姿。
眉間には皺、まるで今にも噛みつきそうな鋭い目で少年を見下ろしていた。
ステラはレーヴェに背を向ける形で立っていたため、その表情には気づいていないようだった。
彼女はやさしい声で、少年に問いかける。
「どうしたの?」
「……えっと、あの……」
少年はもじもじと視線を泳がせ、なかなか言葉を続けられなかった。
私が無言でレーヴェの腕を掴むと、彼は何かを堪えるように、そっと視線を逸らした。
少年はほっとしたように小さく息を吐くと、口をもごもごと動かしながら、それでもすぐには言葉が出てこない。
「なにか……授業でわからなかったことでもあった?」
ステラがやさしく尋ねると、少年は小さく首を横に振った。
「ううん。授業は……とても、わかりやすかった……です」
「そっか、よかった……!」
ステラは嬉しそうに笑った。
そして少年は、顔を上げると、さっきまでの小さな声ではなく、しっかりとした声で言った。
「俺……父ちゃんや兄ちゃんたちから、少しだけだけど文字を習ってたんだ。
でも、なかなかうまく書けなくて……兄ちゃんの家庭教師にも一度だけ教えてもらったけど、その先生が言ってることが難しくて、結局……勉強から逃げ出した」
少年は自分の指をいじりながら、言葉を選ぶように続けた。
「そしたら、近所のおじさんが言ったんだ。
“うちの子はティアナ様の教室に通ったら、あっという間に読み書きを覚えたぞ”って……」
「そうだったの」
少年はこくりと頷き、顔を上げると、真っ直ぐにステラを見つめて言った。
「さっきは……本当にごめんなさい。
獣人が馬鹿なんて……そんなこと、なかった。
先生の授業、とてもわかりやすくて、楽しかったです! ……また、来てもいいですか?」
「ええ、もちろん」
ステラの言葉を聞いた少年の表情が、ふっと綻んだ──
だがその瞬間、レーヴェの低い声が空気を切り裂いた。
「……おい、お前」
少年の体がびくりと強張る。
何を言うのだろうと、少年だけでなく、私とステラの視線も自然とレーヴェに集まった。
「さっき、“獣人は馬鹿ばかり”って言ってたな?」
「……は、はい」
少年は気まずそうに頷いた。
ステラが「お兄ちゃんっ」と制するように声をかけたが、レーヴェの言葉は止まらなかった。
「獣人には……いろんな奴がいる。
人間だって、体を動かすのが得意な者もいれば、頭を使うのが得意な者もいる。
それと同じで、獣人の中にも、ステラのように聡い者もいれば、短絡的な奴もいる」
少年は戸惑いながらも、無言で相槌を打つ。
「だがな──短絡的で、喧嘩っ早い獣人が多いのも事実だ」
その言葉に、少年の肩がわずかにすくんだ。
「そういう奴の前で、“獣人は馬鹿ばかり”なんて口にしてみろ。
運が悪けりゃ──その場で殺されるぞ」
少年は言葉を失い、その場に凍りついた。
レーヴェは、ため息をひとつ吐くと、少しだけ声を和らげた。
「言葉には、責任が伴う。
お前は今日、“勉強したい”って言ったな。だったらまず、自分の発言が何を意味するかを知れ」
「……奴隷にされた獣人は、少なくない。
解放された俺たちは珍しいほうだが、自分が奴隷じゃなくても、家族や友人、大切な誰かが奴隷にされた者は多い」
一瞬、レーヴェの目が遠くを見るように細められる。
「その痛みを抱えて生きている奴らに、何の考えもなく無神経な言葉を投げたら──
お前が思う以上の代償を払うことになるぞ」
少年は、レーヴェの言葉をすべて聞き終えると、硬く拳を握ったまま、しばらく黙っていた。
その小さな肩が、静かに震えていた。
何かを言い返すでも、逃げるでもなく──
ただ、噛みしめるように、うつむいていた。
「……はい」
かすれた声だったが、はっきりとした返事だった。




