225.選べる未来
「なんで止めるのよ、レーヴェ!」
「大丈夫ですよ。あれを見てください」
促されるままに視線を教室へ戻し、私は息を呑んで見守った。
ステラは、少年の言葉を聞いた瞬間、獣人特有の長い耳をわずかにぴくりと揺らした。
けれど──それだけだった。
彼女は静かにチョークを置き、子どもたちに向き直る。
「ねえ、みんな」
穏やかな声だった。いつもの、変わらないステラの声。
「この中で、“最初から全部できた”って人はいるかな?」
子どもたちは顔を見合わせ、そろそろと首を横に振る。
「私も、そうだったよ。自分の名前を書くことも、読むこともできなかった。
悔しくて、泣いた夜もあったんだ」
子どもたちはじっと、ステラを見つめていた。
「でもね、今になって思うの。悲しかったのは、“できなかった”ことじゃなくて──
“学ぶことすらできない環境”にいた自分だったんだって」
その言葉に、何人かの子がはっとしたような表情を浮かべた。
それを見て、ステラはにこりと笑う。
少し間を置いてから、息を吸い、まっすぐ前を向いた。
そして──決意を込めた声で口を開いた。
「さっき……“獣人は奴隷のやつも多い”って言ってたよね?」
静かでありながら、はっきりとした言葉だった。
少年はうろたえたように視線をそらし、もぞもぞと口を動かす。
「だって……父ちゃんが、そう言ってたんだもん」
──やっぱり。私は思わず、唇を噛んだ。
子どもの価値観なんて、大半は親の影響を受けている。
きっと、日常的に獣人を見下すような言葉を聞かされてきたのだろう。
それでも、ステラは少年を責めることなく、落ち着いた声で言葉を続けた。
「“獣人は馬鹿ばかり”っていうのは……私は、そうは思わない。
でも、学ぶ機会がなかったせいで、結果として読み書きができない人が多いのは、たしかかもしれない」
その言葉に、子どもたちが一斉に息を呑んだ。
どうやら気づいたようだった。獣人たちとスラムの人々──
貧しさの中で“学べなかった”という共通点に。
「それに……“獣人には奴隷が多い”って話も、本当よ」
ステラはそう言って、ふわりと微笑んだ。
その笑みは、話の重さとは対照的に、あまりにもやさしかった。
「私もね──以前は、奴隷だったの」
ざわっ、と教室にどよめきが走る。
けれど、ステラはまったく動じず、微笑みを崩さなかった。
「ずっと、自分の環境に絶望してた。
自由なんてなくて、自分の意思も持てず、心を殺して命令に従うだけの日々。
それが嫌なら……死ぬしかない。そう思ってたの」
一呼吸置いてから、ステラはそっと視線を落とした。
「でもね、ある時、手を差し伸べてくれた人がいたの。
番号で呼ばれてた私に、“名前”をくれて、“学ぶ”という選択肢をくれて、“自由”をくれた人が」
そのとき、ステラがこちらを見た。
口元に静かな笑みを浮かべ、「大丈夫」とでも言うように、小さく頷いてから、また子どもたちに向き直った。
「私はね、思ったの。“学ぶ”って、“選べる”ってことなんだって。
文字なんて、使わなくても生きていけるかもしれない。
でも、知らなければ──文字を使う仕事は、最初から選べない」
「私はあの人から、“ステラ”という素敵な名前と、“選択肢”という光をもらった。
だから──今度は、私がここにいるあなたたちに、“学ぶことで選べる未来”を渡したいの」
教室に、静かな沈黙が流れる。
重い空気の中、ステラはいたずらっぽく笑った。
「平民は、読み書きできない人が多いわ。
でも、そんな中で契約書に自分の名前を書けたり、看板の文字をさっと読めたりしたら……ちょっと、かっこいいでしょ?」
子どもたちはそれを想像したのか、表情をぱっと明るくした。
「うん! かっこいい!」
「自分の名前が書けたら、自慢できるよな!」
わくわくと声が上がる中、先ほどの少年が──ぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい」
肩を落とし、膝の上で小さく握った拳が震えていた。
「お父さんが言ってたから……なんとなく、そういうもんだと思ってて。
でも……先生がそうだったって、聞いて……」
言葉を探すように、何度か口が動いた。
それでも、彼は絞り出すように言った。
「教えて……ください。ぼく、ちゃんと勉強したいです」
ステラは、その言葉にふっと目を細めて──やさしく頷いた。
「うん。じゃあ、いっしょにがんばろう」
彼女がチョークを手に取ると、他の子どもたちも一斉に顔を上げた。
子どもたちは夢中になって文字をなぞり始める。
空気が、またひとつ、ほどけていった。
私は扉の外から、その光景を見つめていた。
「……レーヴェ、ありがとう。私、きっと……あのままだったら、怒鳴り込んでた」
「そんなティアナ様がいてくださるから、ステラは胸を張ってあそこに立っているのですよ」
レーヴェは穏やかに言いながら、微笑んだ。
「……あのステラが、自分の言葉で伝えられたのは、とても大きなことです。
あれはきっと、あの子の“自信”になりますよ」
私はうなずき、ふたたび教室の中を見た。
ステラが笑っている。子どもたちが、楽しそうに声を合わせて文字をなぞっている。
“学びたい”という気持ちは、きっと誰の中にもある。
そしてそれは、立場も、種族も関係なく──誰かの未来を変える力になる。
私は、そっと胸に手を当てた。
あの日、彼女に渡した「名前」と「自由」。
それが今、もっと多くの人に、“光”として広がっていこうとしている。
「……ありがとう、ステラ」
私はそっと、そう呟いた。




