223.小さな揺らぎ、大きな波
ほんの少しだけ、グラスの中の日本酒が揺れた。
その揺らめく光を眺めながら、私は静かに過去を思い返す。
雇用については、ある程度の目処が立っていた。
塩作りや米作り、素材の採集や流通──
街の人々が最低限の生活を維持できる仕組みは、比較的早い段階で整いつつあった。
でも──
本当に難しかったのは、「教育」だった。
貴族である私の周囲には、読み書きのできる者が多かった。
彼らは平民とはいえ、貴族と関わる立場にある、“裕福な”人々だったのだ。
けれど、一般の家庭では──
読み書きや計算が「できない」のが当たり前だった。
文字が読めないということは、契約書の内容が理解できず、
新しい知識を得ようにも、メモを取ることも、復習することもままならない。
計算ができないということは、目の前にある二つの商品を見比べても、どちらがお得なのか判断できず、
商人に金額をごまかされても、それに気づけないということ。
“知らない”というだけで、人生には無数の「損」が生まれる。
だけど──
「文字なんて読めなくても、生きていける」
「教育なんて金持ちの道楽だ」
「頭を使うより、手を動かせ」
そんな言葉を、私は何度も耳にしてきた。
何より厄介だったのは、無知ではなく──“無関心”だった。
必要性を知らなければ、変える理由すら見えない。
疑問を持たなければ、変化を望むこともない。
……もちろん、わかっている。
文字を読めたからといって、すぐに暮らしが楽になるわけじゃない。
計算ができたからといって、明日から収入が増えるわけでもない。
それでも私は信じていた。
「知ること」は、未来を変えるきっかけになると。
だから私は、少しずつ、根気強く広げていった。
素材集めを手伝ってくれた子どもたちに食事をふるまうとき、
そのメニューの名前を紙に書いて、そっと添えておいた。
市場の一角では、値札の横に商品名の札を下げた。
それはほんのささやかな工夫だったけれど──
その種は、少しずつ街に根づきはじめていた。
子どもたちには、私が作った絵本やカルタ、トランプで一緒に遊びながら、
自然なかたちで読み書きを学ばせていった。
絵本が楽しいと気づいた子は、自分でも読んでみたくなった。
カルタで札をたくさん取りたければ、文字を知らなければならない。
トランプで勝つためには、足し算ができる方が断然有利だった。
そう気づいた子どもたちは、自分から文字や計算を覚えようとし始めた。
最初は「勉強なんてしなくていい」と言っていた大人たちも、
一緒に買い物に出かけたとき、自分よりも先に商品名を読み上げる子どもたちを見て驚き、
値段も個数も異なる袋を前に、どちらがお得かを即座に計算する姿に目を丸くしていた。
できることが増えると、「学ぶこと」は楽しいと感じられる。
その実感は、少しずつ、大人たちにも伝わっていった。
──けれど、それでもなお、壁は残った。
労働力として頼られていた子どもたちに、“学ぶ時間”を与えるということ。
それは、家庭にとって大きな負担であり、理解を得るには時間が必要だった。
そこで、私が取り入れたのが──給食と配給だった。
給食は、文字通り「食べること」と学びを結びつけるための仕組みだった。
子どもたちが“学校”のような場所に集まり、決まった時間に食事をとる。
それだけで、彼らの生活に「リズム」が生まれた。
学ぶことに“意味”があると感じてもらうには、まず「安心」が必要だった。
空腹では、どんな言葉も心には届かない。
だから私は、栄養価と味の両方を考えた献立を用意し、
手を動かす合間に紙芝居や読み聞かせ、簡単な遊びを通して、自然と知識に触れられる時間を設けた。
そしてもう一つ──配給制度。
これは、子どもたちが一定の時間、学びの場に参加した家庭に対し、
米や野菜、石鹸などの日用品を無償で配るというものだった。
ただの“報酬”ではない。
家族ぐるみで学びを支えるためのインセンティブだった。
親たちは最初こそ半信半疑だったが、
配給によって生活が少しずつ安定していくことに気づき始めると、
「うちの子にも、もっと参加させたい」と口にするようになった。
最初は、学びのためでなくていい。
食事目当てでも、配給目当てでも──来てもらうことに意味があった。
中には、家で親に文字を教える子も現れた。
「家ではオレが、父ちゃんと母ちゃんの先生なんだぞっ!」
得意げに胸を張る子どもの姿に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは確かに、ゆっくりとした、小さな一歩だった。
けれど、間違いなく「変化」が、そこにあった。
教育とは、一人の力では成り立たない。
学ぶ者も、教える者も、支える者も必要だ。
そして何より、「学ぶことには価値がある」という意識が、街全体に根づいていかなければならない。
私は、グラスの中でわずかに揺れる日本酒を見つめながら、そっと微笑んだ。
この小さな揺らぎのような取り組みが──
やがて、大きな波になることを信じている。




