220.見えないもの、伝わるもの
でも今は、こうして笑って「美味しい」と言える。
そのおにぎりを、みんなで囲んで食べられることが、何よりも嬉しかった。
──四年前から、今に至るまで。
本当に、いろんなことがあった。
最初に掲げてた目標の、塩作りと米作り。
塩が安定して採れるようになったあとは、米作りと並行して、少しずつ雇用や教育、そして飲食店の仕組みも見直していった。
本当は、すぐにでも和食を広めたかったんだけどね。
けれど──お米がなければ、作れない料理があまりに多かった。
だから、一歩ずつ。焦らず、米が育つのを待った。
……その裏で、こっそりと味噌や醤油の研究も進めてはいたけれど。
「……味噌の香りって、ほんとに落ち着くね」
誰かがぽつりと呟いたその声に、私の胸にも静かにあたたかいものが広がっていく。
味噌も、塩も、米も。
どれひとつとして、すぐには手に入らなかった。
みんなが、手間を惜しまずに向き合い続けてきた。
一つひとつが、誰かの手で作られ、育てられてきたものだ。
私以外にとっては、本来は嗅ぎ慣れないはずだったご飯や味噌の香り。
それが今では、みんなにとっても“当たり前”のものになりつつある。
視線を手の中のおにぎりに落とす。
手のひらにちょうどおさまる、三角のかたち。
そこには、四年分の努力と、喜びと、涙が、ぎゅっと詰まっていた。
◆
おにぎりを食べ終えて、ふと心が落ち着いたころ。
私はそっと、リュミエール商会の紙袋に入れた小さな包みを手に取った。
「エレーネさん。これ、良かったら受け取ってもらえる?」
「……え?」
エレーネさんが不思議そうに首をかしげる。
私は微笑みながら、包みを差し出した。
おそるおそるそれを受け取った彼女は、リズにうながされて包みを開く。
中から現れたのは、艶のある色とりどりの小瓶たち──ジェルネイルの新作だった。
「これ……新作の……っ! え、もしかして……新色、全部ある!?」
驚きに満ちた声とともに、エレーネさんがネロくんを見やる。
ネロくんはやさしく笑うと、こくんと頷いた。
エレーネさんは再びジェルネイルに目を戻し、ぽつりと呟く。
「……きれい……」
その声には、どこか懐かしさがにじんでいた。
彼女の瞳が、ふわっと柔らかくほどけていくのが分かる。
小瓶を両手で包むように持ち、そっと見つめるエレーネさんに私は言った。
「出産のときはネイルを外さないといけないから、すぐには使えないかもしれないけど……
前に言ってたでしょ。“見てるだけでも、幸せになれる”って」
その言葉に、エレーネさんは小さく笑った。
「……覚えててくれたんですね」
「もちろん。あのときの顔、とても嬉しそうだったから」
「……なんだか、久しぶりです。こういう気持ち」
そう言いながら、エレーネさんは瓶をひとつ手に取る。
淡い桜色。爪先にのせたら、きっとやさしく光るだろう。
「出産が終わったら、まずこれを塗ります」
そう言って、未来を見つめるように目を細めた──が、
「……うっ!」
小さく声をあげて、彼女はまたお腹をそっと押さえた。
「もー……元気すぎるよぉ……」
そう言って、お腹をなだめるように撫でながら苦笑する。
その様子を見ていた私は、ふとあることを思い出し、
包装紙を手に取って、くすっと笑った。
「そういえばね。このラッピングをしてくれた新人さん、これがエレーネさんへのプレゼントだと知って──」
「はい?」
「“私はあの人に憧れて、このリュミエール商会に就職したんです!”って言ってたわよ?」
「……え、ええええ!?」
エレーネさんの目がまんまるになった。
ネイルを見つめていた手が思わず止まり、
リズが「まあ、それは誇らしいことね」と、ふんわり笑った。
ネロくんはどこか誇らしげにうなずき、ルトくんは「お母さん、すごーい!」と無邪気に手を叩いた。
顔を赤らめながら、エレーネさんはジェルネイルの瓶を持ったまま、そわそわと視線をさまよわせる。
「わ、私……そんな、誰かに憧れられるようなこと……してましたっけ……?」
「たくさんしてきたじゃない」
リズが、さらりと言う。
その声には、迷いのない確かな信頼がこもっていた。
「どんな状況でも笑顔を忘れず、前を向いて、長いこと私を支えてくれたわ。
リュミエール商会ができてからも、いろんな苦労があったでしょう?
それでも、スタッフをまとめて、お店を育ててくれた。
その丁寧な歩みが、きっと誰かの心に届いていたのよ」
「……でも、私はただ、毎日一生懸命にやってただけで……」
「それがいちばんすごいんだよ。仕事だけじゃないしね」
ネロくんの声に、エレーネさんの手がぴたりと止まる。
「いきなり二人の子持ちになるなんて、大変だったはずなのに。
それでも俺たちの家族になってくれて、自分のことなんて後回しで、
ルトのことも、俺のことも、ずっと気遣ってくれて……」
ネロくんは、少し目を伏せて言葉を選ぶように続けた。
「……そんな背中を見て、“あの人みたいになりたい”って思う人がいても、俺は不思議じゃないと思ってる」
「……ネロくん……」
エレーネさんの瞳に、じんわりと涙がにじむ。
「……うう、もう……なんなの、みんな……
なんか今日って、嬉しすぎてずるいよぉ……」
その横で、そっとルトくんがタオルを差し出す。
「お母さん。ほら、ちゃんと拭いて?」
「うぅ……妊婦って涙もろくてほんとイヤだ~……」
そう言いながらも、エレーネさんは目元を拭いて、ぽろっと笑った。
その笑顔には、照れと喜びと、そして確かな誇らしさが滲んでいた。




