219.希望の芽が出るころ
「夜も眠れないくらいなんです」
エレーネさんはそう言って、そっとお腹に手を添えた。
その仕草も声色もやわらかく、胸の奥から滲み出るような愛おしさに満ちている。
私はその横顔を見つめながら、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
「楽しみね」
リズが優しい声で言うと、エレーネさんはこくんと頷く。
「初めてのことだから不安もありますけど……ネロくんがいろいろ手伝ってくれるし、ルトくんもいつもそばにいてくれるから、安心できるんです」
そう言って、ネロくんとルトくんに目を向けた。
ネロくんは照れくさそうに、ルトくんは誇らしげに笑みを返す。
エレーネさんは再びお腹に手を当て、やさしく撫でながら続けた。
「この子がくれるものって、“希望”なんだなって思うんです。
まだ生まれていないのに、もう家族に幸せをくれていて……すごいですよね」
「ふふ、それ、すごく分かる気がする」
私が頷くと、エレーネさんは照れたように笑った。
「……あっ、でもティアナ様。この子、けっこう蹴るんですよ? 今も、ほら……わっ!」
突然肩をすくめて笑うエレーネさんに促され、私もおそるおそるお腹に手を添えた。
その瞬間、びくりと指先に小さな衝撃が走る。
「……うわっ!」
「……ね? 驚くくらい元気で……」
エレーネさんは笑いながら、また優しくお腹を撫でた。
「元気でなにより、ね」
リズの言葉に、自然とみんなの頬が緩んだ。
そのとき──
いつの間にか姿が見えなかったルトくんが、奥の部屋から小走りで戻ってきた。
手には何枚かのお皿と箸、湯呑みが乗ったお盆を抱えている。
「はい、お茶持ってきたよ! 早く、おにぎり食べよ?」
「ありがとう、ルトくん」
エレーネさんが穏やかに声をかけると、ルトくんは得意げに胸を張った。
「エレーネさん、座ってて。準備は私たちがやるから」
私がそう言っておにぎりの袋を手に取ると、ネロくんも「俺がやるよ」と袖をまくった。
こんなふうに、自然と助け合える関係になっていることが、何より嬉しかった。
ふと窓の外に目をやる。
風に揺れる水通しされたベビー服。花壇には芽吹いたばかりの緑。
命が育ち、繋がっていくこと。
季節がめぐり、暮らしが少しずつ変わっていくこと。
それでも変わらずにここにある、“日常”という穏やかな時間こそが、何よりの宝物なのだと、私はあらためて思った。
◆
みんなで手分けして、おにぎりや湯呑み、簡単なおかずを並べ終えると、
リビングにはふわりと海苔とお味噌汁の香りが広がった。
「それじゃ、いただきます!」
ルトくんの元気な声を合図に、みんなで手を合わせる。
「いただきます」
「──うまい!」
ネロくんが一口頬張って目を見開く。
リズも笑って「このスパムの塩加減、絶妙ね」と言った。
レーヴェは静かに呟く。
「……やっぱり、このご飯……エイミーさんのお米は、美味しいですね」
ミーナの“おにぎり屋”で使われているのは、エイミーが育てたお米。
そして、塩はベルさんの作ったものだ。
窓の外で揺れるベビー服を見ながら、私はふと、四年前のことを思い出す。
──最初の年は、芽すら出なかった。
原因も分からず、エイミーは黙って土を見つめていた。
翌年は、芽が出ても育ちが悪くて、収穫らしい収穫はできなかった。
それでも彼女は、決してあきらめなかった。
三年目──
「できた……! 見て、ちゃんとお米になってる……!」
泥だらけの田んぼで、エイミーが笑いながら泣いたあの日。
あのとき、炊きたてのご飯で作ったおにぎりをみんなで頬張って、「ちゃんと美味しい」って、涙を流した。
そして今、その味は“街の味”になりつつある。
「それにしても……」
ネロくんが箸を止めて、お味噌汁の湯気を見つめながら言った。
「おにぎり屋ができたの、もう一年くらいだよな。まさか、ここまで“我が家の定番”になるとは思ってなかった」
「ふふ、ほんと」
私もおにぎりを手に取りながら笑う。
するとエレーネさんが、そっと箸を置いて口を開いた。
「私たち……昔から、ティアナ様におにぎりを作ってもらって……その味に、何度も励まされてきました」
そして、少しだけ視線を落とす。
「でも……あれからたった四年で、こんなに多くの人が、お米を好きになってくれて。
おにぎりを“当たり前”のように食べて、箸を使う人も増えていて……。夢みたいです」
誰かが返すでもなく、ただ静かに、うなずき合う。
──努力は、すぐには実らない。
でも、あきらめずに手をかけ続ければ、きっと実を結ぶ。
そのあたたかさを、今、私たちは“日常の味”として噛みしめている。




