212.ごはんと味噌が香る部屋
本格的なものではないけれど──まるで一人暮らし用の小さなキッチンのようなスペースを借りることができた。
この世界では珍しい、いわゆる「台所」だ。
食事は基本的に外食かテイクアウト。でも、この家のように近くに飲食店がない場所では、こうした小さなキッチンが設けられていることもあるらしい。
もっとも、この世界では【調理】スキルがないと、まともな料理は難しい。
だから、何日分かの食事をまとめて買ったり、届けてもらったものを温め直すのが関の山なのだとか。
私はマジックバッグから包みを取り出す。
中には、あらかじめ炊いておいたごはんと、刻んだ塩昆布、干し梅、焼き海苔が入っている。
オリバーさんは味噌汁の準備を始めていた。
私は手と調理道具を【洗浄】し、濡らした布で作業台を整えると、白いごはんをひとつずつ、丁寧に握り始めた。
「──えっ!? この白いのが……さっき見せてもらった“米”なんですか!?」
イリアさんが驚いた声を上げる。
私はマジックバッグに入れていた生米を数粒、イリアさんの手のひらに置いた。
「さっき見せたコメの種を精米……殻を剥くと“玄米”、糠を取り除くと、このような真っ白な“白米”になります」
「動物たちにイルを与えるときに、殻は取ってますが……さらに磨くんですね……」
「はい。そうしてできた白米を“炊く”と、このような“ごはん”になるんです」
「……“炊く”?」
米とごはんの違いについては、これまでにも何度か説明してきた。
料理をしている私とオリバーさんの様子を、イリアさんは興味深そうに見守っている。
「……なるほど。イルを焼いてみてもらったことはあったのですが、正直、食べられたものじゃなくて……水で煮込めばよかったんですね!」
「ええ。炊くには少しコツがいりますが、慣れれば簡単ですよ。……焦げやすいので、火加減には注意が必要ですけど」
「なるほど……それで、こんなにふっくらとするんですね。きらきら光っていて、まるで宝石みたい……!」
イリアさんは、おにぎりの白い粒をじっと見つめ、感嘆の息を漏らした。
その表情はまるで、初めて雪を見た子どものようで、私は思わず微笑む。
「これに塩昆布や梅干しを混ぜて……あとは焼き海苔を巻けば完成です」
「“うめぼし”……それも初めて聞く食材ですね。しょっぱいんですか?」
「ええ、しょっぱくて、少し酸っぱくて……でも、ごはんとの相性は抜群ですよ。よかったら、塩だけで作ったおにぎりを試食用に用意したので、どうぞ」
私は一つ、小さなおにぎりを手渡した。
イリアさんは、まるで壊れ物を扱うように両手で受け取り、しばらく見つめてから、そっと一口かじる。
「……っ!」
目を見開いたまま言葉を失い、じっと味わっていた。
「どうですか?」
「……あたたかくて……やさしい味がします。こんな食べ物、初めてです……!」
ふわりと微笑んだイリアさんの頬には、ほんのり紅が差していた。
その様子に、オリバーさんもやさしく目を細める。
そのとき、イゴルさんが外から戻ってきた。鼻をひくつかせながら、ちらりとこちらを見る。
「何をしてるんだ? 不思議な匂いがするが……」
「おかえりなさい。今ね、ティアナさんたちが食事を作ってくれてるの」
「……食事?」
イゴルさんは、私たちが使っている台所とテーブルの上に視線を向けた。
「あんたたち……料理人だったのか?」
イリアさんがくすっと笑いながら、テーブルの上に布を広げ、食事の場所を整える。
やがて、おにぎりと味噌汁がそろうと、湯気とともに、ほっとするような香りが部屋中に広がった。
「なんだこれは……見たこともない料理だな」
「これは、“お米”を炊いた“ごはん”で作った──“おにぎり”という料理なんです」
イリアさんの説明に、イゴルさんはこくりと頷き、素直に席についた。
イゴルさんは、目の前に置かれた湯気立つおにぎりと味噌汁を、じっと見つめる。
その視線はどこか慎重で、警戒というよりは、“初めてのものに対する敬意”が感じられた。
「……これが、“おにぎり”ってやつか」
ひとつ手に取り、ゆっくりと口元に運ぶ。
もぐ、と一口かじった瞬間、イゴルさんの動きが止まった。
「……!」
眉をひそめるでもなく、目を見開くでもなく、ただ無言で噛み続ける。
やがて、ごくんと喉を鳴らしたあと、ぽつりとつぶやいた。
「……なんだこれ、うまい」
その声に、イリアさんが嬉しそうに笑う。
「ふふっ、ね? 私も驚いたのよ。見た目は地味だけど、すごくおいしいわよね」
そして、いたずらっぽく笑って続けた。
「でもね、もっと驚くことに、この“お米”──イルにそっくりなのよ」
「……は? イルだって……?
あれは栄養価は高いが……正直、人間が食べるようなものじゃないだろ?」
イゴルさんが不思議そうに眉をひそめると、イリアさんは楽しげに笑った。
「だからこそ、驚いたのよ。とても似てるのに、こんなにも違う。手をかければ、こんなにおいしくなるなんて……思いもしなかったわ」
私たちはしばし無言のまま、食事を囲んだ。
湯気が立ちのぼり、味噌の香りがふわりと鼻をくすぐった。




