198.道具が変える日常
「それとね、日本では魔力が存在しない分、別の分野が発展しているの。
たとえば、“科学”っていう考え方があって……それを使って、いろんな便利な道具が作られてるのよ」
「科学……?」
アイリスさんが首を傾げ、ミランダさんも興味深そうに目を細めた。
「たとえば料理だと──“電気”を使って、混ぜたり焼いたりできる機械があるの。
ミキサーとか、泡立て器とか、炊飯器、電子レンジ……聞いたこともないよね?」
「で、電子レン……?」
エレーネさんが言葉を飲み込み、ぽかんと口を開ける。
「うん、今は全部を説明するのは難しいけど……そういう“機械”の力を使えば、誰でも簡単に、一定の品質で料理ができるの。
スキルがなくても、時間と手順さえ守れば、美味しいものが作れるようになってる」
私は静かに言葉を継いだ。
「この世界では、【調理】スキルがあれば手際よく料理ができるし、火加減も魔力で自在に調整できる。
でも……それに頼れない人のために、誰でも扱える道具が必要だと思うんです。
いずれは、そういう“誰でも使える”調理器具を作りたい。スキルに頼らず、確かな手順で、誰かの食卓を支えられる道具が」
ミランダさんが、「ふむ……」と小さく唸るように息をついた。
「スキルの代わりに、仕組みや道具の力で補う……なるほど。発想としては錬金術に近い部分もあるかもしれないわね。
けれど、それを“誰でも使える”ようにするには、かなりの工夫と設計が必要そうね」
「そうですね。でも、私一人では無理でも──一歩ずつ進めば、いつか必ず形にできるって、そう信じています」
「……面白いわね」
ミランダさんの瞳に、どこか挑戦を楽しむような光が宿る。
「ネイルに料理、そしてその道具まで……あなたがもたらすものは、きっとこの世界の常識を、静かに変えていくのね」
私の胸の奥にあるのは、大それた理想なんかじゃない。
ただ、誰かが“自分の手”でできることを、ほんの少しでも増やせたなら──
それだけで、きっと未来は変わる。そんな気がしていた。
「……あの、ティアナ様」
「ん? なに?」
エレーネさんが、胸の前で両手を組みながら、上目遣いで話しかけてきた。
……これは、エビが食べたいときの顔。何かおねだりする気だな。
視線を追うと、エレーネさんはちらりと、テーブルに置かれたマニキュアの小瓶を見ていた。
それを見て、私はふっと笑った。
「……やってみる?」
「いいんですかっ!?」
目を輝かせて身を乗り出すエレーネさん。その反応はあまりにも素直で、見ているこちらまで楽しくなってくる。
「でもね、今あるのは色付きのマニキュアだけ。ベースコートもトップコートもないから、仕上がりや持ちはちょっと微妙になるけど……」
「ぜんぜん大丈夫ですっ! 塗ってもらえるだけで嬉しいです!」
エレーネさんは嬉しそうに両手を差し出してきた。
その手のひらはほんのり温かくて、少しだけ指先に力が入っているのがわかる。
「じゃあ……じっとしててね」
私は小瓶を開け、筆を静かに引き上げる。
光に透けるような淡いピンク色の液体が、筆先に絡んでいた。
香りは少しきついけれど、どこか懐かしささえ感じる匂いだ。
「ちょっと、匂いがキツいわね……」
ミランダさんが鼻を軽く押さえて、ぽつりと呟いた。やっぱり、慣れていないと気になるよね。
「塗料の匂いですね。長時間嗅ぎ続けると頭痛の原因になることもあるので、換気はしたほうがいいです。
ただ、健康に害があるわけではありませんし、乾けば匂いは消えるので安心してください」
私はそう説明しながら、エレーネさんの爪に慎重に筆を滑らせていく。
一筆、一筆、ゆっくりと。
さっき、説明のために自分の指に試し塗りはしていたけれど、ちゃんと塗るのはこの世界で初めてだ。
緊張とわくわくが、同時に胸をくすぐる。
「わ……冷たい……でも、くすぐったいかも……!」
エレーネさんが小声で笑う。
その声に、アイリスさんが身を乗り出し、興味津々といった様子で観察していた。
「色素の発色がとても安定していますね……粒子の浮きもない。成分に粘性を与えているのは、揮発性のオイルでしょうか……?」
「たぶんそう。揮発して乾くことで、表面に膜ができる仕組みなの。乾燥中はまだ触らないでね」
「了解しました」
アイリスさんが真顔で頷くその姿に、思わず笑いそうになる。
「さっき、“ベースコートとトップコートはない”って言ってたけど、それってどういうものなの?」
「ベースカラーだけでも塗れるけど、できればそれらも使った方が仕上がりは綺麗になるんです。
ベースコートは爪の表面を整えて、色を均一に塗れるようにしてくれるし、色素沈着も防げる。あと、マニキュアの持ちも良くなります」
そう説明しながら、私は次々と爪に色を乗せていく。
「トップコートは、マニキュアを塗ったあとに最後に重ねるもの。爪を保護して、カラーを長持ちさせるし、ツヤも出ます」
私がそう言うと、エレーネさんとアイリスさんが同時に声を上げた。
「えっ! ベースカラーだけでもこんなにツヤツヤなのに!?」
二人は塗られた爪を、まじまじと見つめていた。
すべての指に塗り終え、筆を瓶に戻したあと、私はそっと言った。
「……これで、完成。乾くまで、そのままにしててね」
自分の爪をまじまじと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……うわぁ、すごい……本当に塗るだけで、こんなに指先が綺麗に見えるんですね」
その声には、純粋な感動がにじんでいた。




