174.クリスディアの味を、多くの人へ
ワインを傾けるミランダさんの横顔を見ながら、私は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じていた。
──誰にもあげない。
その言葉が自然と口をついて出たことが、少し誇らしかった。
「ふふ。じゃあ、せめてこのピザのレシピだけでも、こっそり教えてくれないかしら?」
「いいですよ」
即答すると、ミランダさんは目を見開いた。
そのやり取りを見ていたマリーが、少し慌てたように言う。
「ティアナ。ナポリタンの作り方を教えてもらった私が言うのもなんだけど……レシピって、本当に大切なものなのよ」
その言葉に、アイリスさんも静かに頷いた。
「ほんの小さなコツ一つでも、高値で取引されることがあります。
まして、この“ピザ”のような、見たこともない料理のレシピとなれば……その価値は計り知れません」
「うん、それは分かってる。でもね、私──
おいしい料理を独り占めしたいとは思わないの」
驚いたように、アイリスさんとマリーが私を見た。
ミランダさんも、じっと真意を探るようにこちらを見つめている。
促されるようにして、私は言葉を続けた。
「誰にでも無条件で教えるわけじゃないけど……“ふわふわ白パン”って、子どもやお年寄り、病人ほど必要なものだと思わない?」
「ふむ……」
そう頷いて、ミランダさんは白パンを一つ手に取った。
その隣で、アイリスさんが口にしていた白パンを飲み込み、静かに言った。
「これまでの硬いパンは、成人の私たちでさえ食べにくいものでしたからね。
この柔らかいパンなら、子どもやお年寄りでも無理なく食べられるでしょう」
マリーも力強く頷いた。
「たしかにルークなんて、パンをちぎるだけでも苦労してるわ。
それに黒パンって、そんなにおいしいものじゃないし、子どもたちには大不評。
でもこの白パンなら……」
「でしょ。最近ね、この白パンをスラム街の子たちに配ってるの」
「スラム街!?」
私は、ここ最近あったことを三人に説明した。
ポーションの材料を集めるため、スラム街の子どもたちに手伝ってもらっていること。
そして昨日、スラムの人たちに炊き出しをしたことも──
ついでに、ゴルベーザとの一件やポーションの話、
さらにマニュール家が一時的に保有していた領地管理権を、ジルティアーナが回収した件についても話した。
「それはまた……すごいことをしたわね」
ミランダさんが呟き、アイリスさんも感心したように頷いた。
「スラム街に入るだけでも、普通の貴族なら怖がって近づこうとしません。
そのうえ、子どもたちに手を差し伸べて、炊き出しまで……」
「そんな立派なもんじゃないわ。
スラムの様子を見たかったし、話も聞きたかった。そして──新しい事業に協力してくれる人を探す、という下心もあったの」
目の前のふわふわの白パンを見つめながら、エイミーとミアちゃん母娘をはじめ、スラム街の人たちの顔を思い浮かべる。
「……黒パンって、やっぱりおいしくないわよね。私も苦手。
でも、スラムの子たちは、それさえ滅多に食べられない。
たまに手に入った時は、親が我慢して子どもに与えるの。
子どもはそれを、ごちそうみたいに大事に食べるけど……それが、あの黒パンなのよ。
あんなに硬くて食べにくいものを、小さな子どもや、歯の弱ったお年寄り、病人が口にするの」
私は苦笑いを浮かべ、グラスを軽く傾ける。
白ワインを口に含み、つまみにチーズとハムのピンチョスを口へ運ぶ。
「やっぱり──クリスディア名産のワインもチーズも最高ね」
ワイングラスを揺らしながら、金色に輝くワインを誇らしげに見つめた。
「こんな素晴らしいワインやチーズがクリスディアで作られているのに、肝心の領民が食べられないなんて、おかしいわ。
ジルティアーナ様が領主になったからには、それを変えたいの」
皆が驚いた表情でこちらを見る。
その中で、私は次にピザを手に取り、ひと口食べた。
咀嚼するたびに、濃厚なチーズの味が口いっぱいに広がり、鼻を抜ける香りに思わず笑みがこぼれる。
──うん、やっぱり絶品。
あの日、はじめて厨房に行ってから、ミーナとアンナは何度もピザを焼いた。
小麦粉など材料の分量を変えたり、生地をこねて、伸ばして、均一に広げられるように練習した。
オーブンの温度や焼き時間も試行錯誤を繰り返して、どの加減が一番美味しいかを探った。
はじめて食べた時も美味しかったけれど、今のピザはさらに格別だ。
それでも──私は、最初に思ったことは忘れていない。
サラミが焼けすぎていたり、今より劣る点もあったけど、それでも思ったの。
“クリスディアのチーズって、本当においしい”って。
ピザを食べ終えてから顔を上げる。
「ピザって、貴族が食べるならナイフとフォークを使ってもいいけど、本来は手で食べるものなの。
上の具材は、意外と何でも合うのよ。肉でも魚でも、野菜やフルーツさえも。
──ね、平民向けだと思わない?」




