172.専属という名を、もう一度
「ご主人、他の【料理人】たちとうまくやれそうで良かったわね」
「ミランダ様っ!」
マリーが驚いた声を上げると、私の隣の椅子をアイリスさんが引き、ミランダさんがそこに腰を下ろした。
「マリーさん。私のことは“ミランダさん”でいいって言ったでしょ?」
そう言って、ワインをくいっとひと口飲み、「クリスディアのワインはおいしいわね」と呟く。
マリーは少し遠慮しながら口を開いた。
「わかりました。では、変わらず“ミランダさん”とお呼びします。その代わり、私のこともティアナと同じように“マリー”と呼んでください」
にこりと笑ってそう言うと、ミランダさんもくすりと笑った。
「わかったわ。改めてよろしくね、マリー」
「はい、ミランダさん!」
そんなふたりのやりとりを、あたたかい気持ちで見守りながら、さっきの言葉の意味を尋ねた。
「マリーは、オリバーさんが他の【料理人】とうまくやっていけるか心配だったの? ミーナとアンナはもちろん問題ないけど、あのオリバーなら、どんな人とも大丈夫だと思うけど」
「ええ、あの親子なら問題ないでしょうね。
それにしても、上級貴族のヴィリスアーズ家に、元専属料理人といっても下級貴族で、しかも十年近くブランクのある宿屋のご主人を採用するだけでも、ありえないのに……」
ワイングラスを見つめながらミランダさんがそう言うと、ぷっと吹き出した。
「まさか、平民の食堂からまでスカウトするなんてね」
そう言って笑った。でも、それは人を馬鹿にするような笑いではなく、本当におかしそうな、楽しげな笑いだった。
……そんなにおかしい話だったかな?
そう思っていると、それが顔に出ていたらしく、アイリスさんが教えてくれた。
「貴族の専属料理人というのは、普通は紹介制なんです。【料理人】の中でも、専属になるのはとても名誉なこと。一度その地位を得た者が、それを手放すことはまずありません」
アイリスさんの言葉を聞いて、マリーがまた「オリバーに専属料理人を辞めさせてしまった」と思っているのか、どこか気まずそうな表情を浮かべた。
アイリスさんは続ける。
「専属料理人は、基本的に定年まで務めるのが普通です。仮に定年などで席が空いたとしても、その枠は親族や身近な関係者に与えられることがほとんど。だから、それ以外の者が採用されることは、まずありません」
うん。以前マリーたちから専属料理人のことを聞いたときに、そんな話をされていた。だから、そのあたりは理解している。
「しかも、その地位は下級より中級、中級より上級と、より高い地位の貴族につくほど希少で、【料理人】にとっても大きなステータスです。つまり、上級貴族の専属料理人に新たに就けるチャンスなんて、滅多にないんです」
ああ……それなのに、と思いかけたところで、ミランダさんが口を開いた。
「専属料理人たちって、限られた椅子を奪い合ってるから、排他的な人が多いのよ。しかも、無駄にプライドが高かったりするし。
そんなところに、たいした経歴もない人が入ってきたら……どうなるか、想像できるでしょ?」
私は小さく頷いた。
確かに、そう簡単には受け入れられないだろう。
マリーも力強く頷き、苦笑いを浮かべた。
「ミランダさんの言うとおりなの。前にも話したでしょ? 専属料理人になれるのは、“親も専属料理人じゃないと難しい”って」
私は頷く。マリーが以前、こんなことを話してくれていた──
『専属料理人になれるのは、実力だけじゃなくて、縁や運がなければ難しいの。
普通は親も専属料理人じゃないと、なかなかなれないわ』
『それでもオリバーは、親の助けなしに人一倍努力して、やっと夢だった専属料理人になれたの』
──そのときのマリーの誇らしげな顔が、今も目に浮かぶ。
マリーは話を続けた。
「コネも後ろ盾もない状態で……実力だけでオリバーは専属料理人になったの。
でも、それだけに人間関係は本当に大変だったと思う」
うん……。
私は専属料理人といえば、オリバーさんしか知らないけれど、あのヴィリスアーズ家で出されていた“とんでも料理”を思い返せば、無駄なプライドだけは高い専属料理人たちの姿が目に浮かぶ。
そこへ、血筋もコネもないオリバーさんが入ってきたら──
たとえ腕があったとしても、歓迎される未来は想像しづらい。
下級貴族の屋敷ですらそうだったのだから、上級貴族の家ともなれば、状況はさらに悪くなるのが普通だろう。
マリーとオリバーさんも、そういう苦い経験をしてきたに違いない。
なのに──
私はマリーの顔を見つめ、静かに口を開いた。
「そんな過去があったのに……私たちの誘いを受けてくれて、ありがとう」
私の言葉に、マリーはそっと首を横に振った。
「ううん。そんなこと、最初から覚悟してたの。
採用されることが難しいのも、いざ働いたら大変だろうことも、全部覚悟のうえ。
それでも、もう一度オリバーに“専属料理人としての舞台”に立ってもらいたいって、心から思ったの」




