166.エイミーの、新しい一歩
昼食を食べ終え、並べた湯のみに、湯気の立つお茶を注いでいく。
私とリズ、ミーナとアンナ、そしてミアちゃんのお母さんが輪になって座った。
「本当に……おいしかったわ。あんなにふわっとしてるのに、しっかり形になってて。
食べたことのない味だったけど、とっても美味しかったです」
ミアちゃんのお母さんが、ほっとしたように微笑みながらお茶を口に運ぶ。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。今日は久しぶりに土鍋で炊いたの。この厨房で炊くのは初めてだったし……」
(──いや、正確には“久しぶり”どころか、“この世界に来て初めて”なんだけど)
そう考えていたのが伝わったのか、リズがこちらを見て静かに笑ったのに気づく。
私は他のみんなに気づかれないように、そっとリズを睨んだ。
ミーナが興奮気味に続けた。
「いや、本当にっ! エイミーの言うとおりだよ。食べたことないはずなのに、どこか懐かしいような味で……ダンが持って帰ってきてくれたのも、おいしかったけど、今日のはさらに食感もふわっとしてて、すごく美味しかった!」
一気にミーナが言った言葉に、ふと引っかかるものがあって、思わず聞き返す。
「……“エイミー?”」
「あっ! すみません……名乗っていませんでしたね。今さらですが、私の名前はエイミーと申します」
ミアちゃんのお母さん──いや、エイミーさんはそう言って立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
私はそのとき、はじめて気づく。
“ミアちゃんのお母さん”と呼んでいて、彼女自身の名前を……ずっと呼んでいなかったことに。
申し訳なさそうに立ち尽くすエイミーさんに、私は着席を促す。
「私の方こそ、ごめんなさい。“ミアちゃんのお母さん”なんて呼び続けて、失礼だったわよね。
これからはエイミーって呼んでもいいかしら?」
そう言いながら、ふと昔を思い出す。
私は子どもどころか、結婚すらしていなかったけれど──日本にいた頃、既婚で子持ちの友達が何人かいた。
彼女たちはよく、こんなことを言っていた。
『旦那が私の名前じゃなくて“ママ”って呼んでくるのが嫌』
『専業主婦になって、子どもが幼稚園に通うようになってからは、“○○ちゃんママ”って呼ばれるばかりで……たまに寂しくなる』
なのに私は、ずっと“ミアちゃんのお母さん”と呼んでしまっていた。
“エイミー”という、ちゃんと素敵な名前がこの人にはあったのに──。
「ティアナ様は……本当にお貴族様なんですか?」
突然の問いに、私はエイミーの顔を見る。彼女ははっとして、慌てだした。
「申し訳ございませんっ! 私ったら、失礼な言い方を……っ。決して、ティアナ様が貴族ではないと思ったわけではなくて……!」
おろおろとするエイミーに、ミーナが豪快に笑った。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ、エイミー。
ティアナ様は、お貴族様対応ができない私にも『気にしないで普通にしていい』って言ってくれたくらい、寛大な人なんだからっ!
分かってるよ。エイミーが言いたかったのは、ティアナ様がいい意味で“貴族らしくない”ってことだろ?」
ミーナの言葉に、エイミーはコクコクと何度も頷いた。
その横では、アンナが
「いくらティアナ様が寛大だからって……さすがにお母さんは、もう少し取り繕ってほしいわ」
そう言いながら頭を押さえる姿があった。
……けれど、その声はミーナには届かなかったらしい。
「エイミーはね、ティアナ様が“エイミー”って名前を呼ばなかったことに、謝ったのが意外だったんだよ。
貴族って、普通は自分の非なんて認めないだろ? ほら、例の馬鹿息子とか──ロベールに感謝も謝罪もなしで、ひどいもんだっただろ?」
「……それはさすがに、例える相手が悪すぎるんじゃ……」
アンナの小さな声が聞こえたが、それもまたミーナには届いていない。
うん。
今日にはもうこの街を離れるゴルベーザたちのことは、正直どうでもいいとして──ロベールさんの名前を聞いて、私はあることを思い出した。
「そうだ……っ! そのロベールさんに聞いたんだけど、エイミーって、実家で畑仕事してたって本当?」
「……え!? はい、確かに実家は農家で……結婚する前までは、実家の仕事を手伝ってました」
「さっき言ったように、これからクリスディア領で“お米作り”をしようと思ってるの。でも、農業の技術や知識がなくて……。ぜひ力を貸して欲しいの」
「私の……力……?」
エイミーは、思いがけない言葉に、目を見開いた。
「そう。あなたがどんな作物を育てていたのか、どういう道具を使っていたのか、ぜひ教えてほしいの。
あなたが中心になって、米作りチームを作るのも、いいんじゃないかと思って」
「わ、私が……中心に、ですか?
でも……私は実家の手伝いと子育てをしてただけで、仕事に出たこともないですし……第一、“米”なんて、さっきまで知らなかったんです」
「大丈夫。あなた一人に全てを任せるつもりはないわ。私たちも一緒にやっていくし、最初から完璧になんて求めてない」
エイミーはしばらく黙っていたけれど、やがて湯のみを両手で包むように持ち、ぽつりとつぶやいた。
「……私、ずっと“ミアの母親”でしかなかったんです。
家ではミアとふたりっきりで、自分の名前を呼ばれることもあまりなかったし、何かを任されることもなくて……。
でも、もし……変わるのなら、こんな私でも誰かの役に立てるのなら──やってみたい、です。
わたしに……できるといいのですが……」
「できるよ、絶対に!」
力強く言ったのはミーナだった。彼女は身を乗り出して、エイミーの手を取る。
「エイミーは、ずっとがんばってきたじゃないか。旦那さんが亡くなって、ひとりになっても……ミアはあんなに元気に育ってる」
その言葉にハッとして、エイミーは少し離れたところで遊ぶ、ミアちゃんを見た。
「わたしも、そう思うわ。ミアは……すごくいい子だもん。そんなミアを育てたのはエイミーよ」
アンナも静かに、けれどはっきりと頷いた。
「ふたりとも……ありがとう……っ」
エイミーは、目に光るものを浮かべ、ミーナとアンナ母娘の手を強く握った。




