155.不安の中の約束
エレーネさんが去ったあと、一瞬の静けさが部屋を包んだ。
私たちはそれぞれ、事件の重さに向き合いながらも、どこかで言葉を探しているようだった。
私はふと、ミアちゃんのお母さんに目を向ける。
これから私たちは兵士の詰所に戻らなければならない。
だったら──今がチャンスだ。
「……ねえ、ミアちゃんのお母さん」
呼びかけると、彼女ははっとして顔を上げた。
「はい」
「炊き出しの前にロベールさんに会ったとき、『仕事はどうにか見つけるつもり』って言ってたよね?
今は、まだ仕事をしていないってこと?」
ミアちゃんのお母さんは目を見開いたあと、気まずそうに目を伏せた。
「はい……探してはいるのですが、お恥ずかしながら、なかなか雇ってもらえなくて……」
「だったらさ。もし良ければなんだけど──私たちの仕事、手伝ってもらえないかな?」
「……え? 私が……ですか?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「うん。実は今ね、新しくいろんなことを始めようとしてて、人手がたくさん必要なの。
それに……こういう時だからこそ、落ち着いている人に来てほしいの。
あなたなら、安心して任せられると思ったんだけど……どうかな?」
そう言うと、彼女はしばらく黙ったまま、手をぎゅっと握りしめた。
ミアちゃんが、そっとその手を包み込むように握り返す。
「……ありがとうございます。こんな時に、そんなふうに言っていただけるなんて……嬉しいです。ぜひ、お手伝いさせてください」
その声は少し震えていたけれど、はっきりとした力がこもっていた。
「よかった! 本当はね、仕事の内容とか詳しい話をこのまま話したいんだけど、今日はこのあと予定があって……また明日、会えないかな?」
「もちろん、大丈夫です。伺いますね」
「ありがとう。じゃあ、明日の昼までにヴィリスアーズ邸まで来てもらえる?」
そう言った瞬間、ミアちゃんのお母さんの顔色がまた曇った。
「わ、私がヴィリスアーズ邸に行くんですか? お貴族様のお屋敷に伺うなんて……!」
──そういえば、ダンさんとロベールさんもすごく緊張してたっけ。
確かに、ほぼ初対面のミアちゃんのお母さんには、かなりハードルが高いのかもしれない。
そんなことを考えていると──
「えっ! おばさん、ヴィリスアーズ邸に行くの!? いいなぁ、俺も行ってみたい!!」
思わぬ声が聞こえた。ネロくんだ。
彼は身を乗り出し、キラキラした目でミアちゃんのお母さんを見つめている。
つられて私がネロくんを見つめると、彼は気まずそうに姿勢を正した。
「ごめん。俺なんかがお邪魔──」
「ううん、いいわよ! ぜひ、ネロくんも一緒に来て」
私が遮るように言うと、ネロくんは嬉しそうに聞き返した。
「えっ!? いいの?」
私は笑顔でうなずく。
「もちろん。むしろネロくんが来てくれたほうが、きっとみんなも緊張がほぐれていいと思うわ」
「ええ、そうね。ネロくん、お願いしてもいいかしら?」
「もちろんだよっ! やったー! 一度、お貴族さまのお屋敷に行ってみたかったんだよね!」
私の提案に、ミアちゃんのお母さんも賛同し、ネロくんは嬉しそうにガッツポーズをする。
その様子を見て、ステラがそっと口を開いた。
「よろしければ、私が門の前までお迎えに行きます。
知らない使用人に話しかけなくても済みますし、安心できるかと思います」
「本当に? それなら、だいぶ気持ちが楽になるわ。ありがとう、ふたりとも」
胸に手を当て、ほっとしたように笑顔を見せてくれたミアちゃんのお母さん。
すると横から、ぽつりと「いいなぁ……」というミアちゃんの呟きが聞こえた。
その言葉に、一斉に視線がミアちゃんに向かう。
ハッと気づいたミアちゃんは、慌てて口を押さえて、小さく「ごめんなさい」と謝った。
「よかったら、ミアちゃんも来てね。
ミアちゃんも来てくれるなら、ステラと約束してるナポルのお菓子を明日作るわ。
お母さんにお土産に渡してもいいけど、できたてのほうがおいしいから、ぜひ一緒に」
私が笑いながらそう言うと、それにミアちゃん本人よりも、ステラとネロくんが反応した。
「やったぁ! ティアナさんのナポルのお菓子、とっても楽しみです!」
「ミアっ! ステラが言うように、ティアナさんのお菓子って本当においしいんだぜ? 楽しみだな!」
「……うんっ!」
そんなふうに笑い合う子どもたちを、さっきまでの不安な表情が嘘のように、ミアちゃんのお母さんは穏やかな眼差しで見つめていた。
その様子に、私の心もじんわりとあたたかくなる。
……けれど。
この穏やかな時間が、長く続くとは限らない。
私たちには、もうひとつ確かめなければならないことがある。
──上級ポーションの真相を探るために、兵士の詰所へ向かわなくては。
明日、ナポルのお菓子を楽しく食べるんだ。
そのために、上級ポーションとコルパの問題を片付けなければ──そう、私はひそかに決意をした。




