142.ルナとステラ
「ティアナ様! この子、怪我してますっ」
ステラはジャッカロープを大事そうに抱え、足早にこちらへと戻ってきた。
リズと顔を見合わせ、すぐにステラの元へと歩み寄る。
「どこを怪我してるの?」
私がそう尋ねると、ステラは腕の中の小さな体を少し傾けて見せてくれた。
ふわふわな灰色の毛並みに隠れるように、前足のあたりが赤く染まっている。
「……鋭い枝か何かで引っかけてしまったようです。血は止まっていますが、まだ痛いかもしれません」
「かわいそうに……」
小さく震えるその体が、どこか人懐っこくも、心細げにステラに身を預けているのがわかる。
「リズ、下級ポーションってこの子に使える?」
「大丈夫ですよ。このジャッカロープは小さいですし、傷もひどくないので。下級ポーションを布に染み込ませて巻いてあげれば、十分効果があると思います」
そう言ってリズが取り出してくれた清潔な布に、小瓶から下級ポーションを垂らしそっと傷口に当てた。
ステラが慣れた手つきで小さな前足を包み込むように巻いていく。
驚いて暴れるかと心配したが、ジャッカロープはじっと大人しくしていてくれた。
「……痛いのによく頑張ったね」
優しく語りかけるステラの声に、ジャッカロープはぴくりと耳を動かし、彼女の手に鼻先をちょこんと押し付けた。
「あら……すっかり懐いちゃったみたいね。名前、つけてあげたら?」
思わず口をついて出た提案に、ステラは目を丸くした。
「えっ、わたしが……ですか!?」
彼女は少し戸惑った様子だったが、腕の中のジャッカロープをじっと見つめたあと、私の方に視線を向け、少し恥ずかしそうに言った。
「……“ルナ”はどうでしょうか? 灰色の毛並みが、ティアナ様の髪みたいで……月の光みたいだから」
その言われて、照れくさくなる。
私の髪色はくすんでいて地味だと思っていたけれど、そんなふうに言ってもらえると、やはり嬉しかった。
言葉に詰まる私に、リズがにこやかに言った。
「ルナ……ぴったりですね」
「確かに。ルナとステラなら、月と星。素敵な組み合わせね」
私がそう頷くと、ステラは頬を染めてとても嬉しそうに笑った。
そのとき、ジャッカロープ──ルナは、ぴくっと耳を立て、まるでその名を気に入ったかのように体を小さく揺らした。
「……ふふっ、気に入ってくれたみたいね」
森を渡る風がふっと止み、木々の隙間から差し込む陽光が、私たちの周囲をやさしく包んでいた。
まるで時間が止まったかのように、穏やかで温かな空気が流れていた。
「あっ! アルカ草だー!」
突然、元気な子供の声が聞こえてきた。
気づくと一人の男の子が、ステラのすぐそばにあったアルカ草を見つけて駆け寄ってきたのだ。
「……あっ!」
その声に驚いたルナは、ぴょんとステラの腕から飛び降り、一目散に茂みの方へ走っていく。
最後に、じっとこちらを見つめたあと、その姿は茂みの中へと消えていった。
「……行っちゃった」
ぽつりと漏らしたステラ。ルナが消えた茂みを見つめる赤い瞳は寂しげに揺れていて、いつもはぴんっと立っている、ルナとお揃いのような、可愛らしい獣耳はいつもより元気がなかった。
私は、そっとステラの肩に手を置いた。
「でも、元気になってよかったじゃない」
「ちゃんと歩いてたから、大丈夫ですよ。もう痛くないんです、きっと」
私とリズの言葉に、ステラは小さく笑ってうなずいた。
「はい……そう、ですね」
木々の間からこぼれる陽光が、きらきらと湖と地面を照らしていた。
光に包まれたステラの姿は、まるで幻想の中にいるようで、胸の奥があたたかくなる。
「……また、会えるかな」
静かに続けられたステラの言葉に、私は微笑んで応える。
どこか、またすぐに会えるような──そんな予感があったから。
「うん。きっと、また来てくれるわ。あんなに懐いてたんだもの」
私がそう言うと、ステラは少しだけ泣きそうな、でもとても優しい顔で笑った。
「そうですね!
……じゃあ、またね。ルナ」
彼女がルナの消えた茂みの方に手を振ったその瞬間、風がそよそよと木々を揺らし、森の静寂を包み込むように流れていった。
──そして、そのほんの少しあと。
茂みの奥。誰も知らない、ひっそりとした洞窟のような場所で。
灰色の毛並みのジャッカロープ──ルナが、静かに振り返っていた。
その瞳には、まるで何かを想っているかのような、深い光が宿っている。
小さく鼻を鳴らすと、ルナはふたたび姿を翻し、さらに奥へと走り去っていった。




