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38話 泣き下手と狂気のスパーリング


 更衣室で着替え、フロアに戻る。

 スパーリング用のグローブ一式は小口君に借りた。


「能登サン……」


 バンデージを巻きながら心配そうに俺を見る小口君。俺は軽く頷いて「大丈夫」と伝える。だが、彼の表情は晴れなかった。俺が一切笑わなかったせいだろう。


 準備が整った。両手をぎゅっと握り込む。

 スパーリング用のグローブは16オンス。試合用よりもごつい。それがぎゅうううっと小さな悲鳴のような音を立てる。隣で小口君が息を呑んだ。

 頭部を守るためのヘッドギアを付ける。

 

「行ってくる」


 そう一言告げて、俺はリングへ上がった。

 

 ――リング内が狭く見える。


 対角線上のコーナーにカイトが待っていた。余裕の表情をしているのがわかる。ただ、よく見れば目元が微かに引き()っていた。

 小口君がリングサイドにやってくる。


「能登サン。僭越(せんえつ)ながら、オレがセコンドやります」

「うん。頼むよ」

「はい。……それにしても」


 彼の視線が俺の肩から足下にかけて注がれる。


「そうだろうなと薄々思ってましたけど、能登サンの身体マジやばいっすね。こんなときに言う台詞じゃないってわかってるんスけど……」

「家族に合わせて鍛えてるから」

「どんだけ筋トレ狂なんスかそのひと……」


 その言葉に、初めて小さく笑う俺。

 小口君は二の腕を掴んで訴える。


「いいですか能登サン。ヤバくなったらすぐに降参してくださいね? 何ならリングから飛び降りてもいいっスから。オレ、能登サンがボコボコにされるのは見たくないっス」

「ありがとう、心配してくれて。さあ、ゴングを」

「うー……! いいですか、約束っスよ!? 絶対っスからね!?」


 何度も念押ししながら、小口君が下がる。俺は片手を上げて応えた。


 そして、カイトと対峙する。真正面から、堂々と。

 カイトがコーナーから出てきた。ゆっくりとした足取り。しかし不意に、彼は駆け出した。俺の一歩前まで肉薄して、止まる。

 俺は下がらない。奴の視線を正面から受ける。

 カイトに殴るつもりがないことはわかっていた。これは挑発だ。


 カイトは俺のことを爪先から頭の天辺まで()め上げる。しつこいぐらいにじっくりと。彼の瞳が、徐々に狂気に染まっていく。血走っていくのが見えた。


 彼の脳内にアドレナリンが(あふ)れている様子が、手に取るようにわかる。


「イイネ。あんた、やっぱイイわ。雰囲気、ふてぶてしい態度。サイコーだよ。アガるわ」

「まるでチンピラみたいなセリフだな、俳優」

「俳優はその通り。だがチンピラは訂正しな。俺はチンピラに落ちたんじゃない。研ぎ澄まされた(・・・・・・・)のさ」

「やっぱり危険だよ、あんた」

「この程度で危険たあ、気が早いぜ。もっと味わっていけよ。進化した俺の凄み(・・)を」


 血走った目で、囁くように告げる。俺を視線でロックオンしながら、一歩、二歩と距離を取った。

 ストレートが届く半歩後ろに立つ。


 視界の端で、小口君が木槌を握る。目を閉じて、祈るようにゴングを鳴らした。


 直後、カイトの猛ラッシュが始まる。

 右、左、右、右、左、ボディ。

 暴力的に腕を振り回しているようで、拳は的確に人体の急所を狙ってくる。

 一撃見舞うたびに小さく鋭く息を吐くカイト。

 リズムといい、足運びといい、明らかに経験者のソレだった。

 しかも、彼はラッシュ中ずっと笑っているのだ。

 拳の勢いと異様な雰囲気。二重のプレッシャーが襲いかかる。なるほど、小口君はこの圧にやられたのか。


 俺は、ひたすら防御に徹した。

 ひとつひとつの攻撃を丁寧に(さば)く。

 スパーリング用のごついグローブが、鈍重で軽い衝撃を常に伝えてきた。


 防戦一方――に見えたのだろう。


「もうダメ……! 見てらんないよ。ねえ止めて! 止めてってば!」


 相原さんが小口君に訴える。俺が小型カメラを預けた人だ。青い顔をしながら、それでも律儀にカメラを構えてくれている。防御姿勢の合間から、彼女の姿をしっかりと俺は確認した。


 小口君の呟きが聞こえる。


「おかしいな……」

「おかしいのは見たらわかるわよ! 乱場カイトはボクシング経験者なんでしょ!? 素人の能登さんとスパーリングなんてそもそもがおかしい――」

「その通りなんだよ。乱場カイトは間違いなく経験者、能登サンは素人……そのハズなんだよ。なのに、オレは全然アドバイスできてねぇ。セコンドなのに」

「な、何を言ってるの?」

「オレが何も言えないほど、レベルが高ぇ(・・・・・・)ってことだよ。全部いいように防いでる」


 彼の声が聞こえたのかどうか。

 終始押し込んでいたカイトが、ふと距離を取った。息を整えながらリズムを取る。

 警戒したのか。いや、少し違うな。

 すぐに壊れたら興醒めだと思っていたオモチャが、意外に頑丈で喜んでいる。すぐに終わらせたらもったいない。

 そんな顔だ。

 なにせ、ゴングがなったときよりもさらに笑みが深く、禍々(まがまが)しくなっているから。


「乱場カイトが一方的に打ち込んでるように見えるけど、そうじゃない。プロとの試合だってこれほどのディフェンス力はそうそう見られない。これは、ひょっとするとひょっとするかも」


 小口君が拳を握りながら、興奮気味に言う。

 相原さんも声を張り上げた。


「能登さん! 頑張って!!」


 俺は小さく拳を上げて応えた。表情をほころばせる二人。

 そこへ、カイトが再度距離を詰めてきた。ヘッドギアがぶつかり合うほどの近距離になる。


「ザコはやっぱわかってねえよな? あんたもそう思うだろ?」


 カイトが囁く。


「思ったより戦えるっつーことは、()()()()()()()()()()()()ってことなんだぜ」






【38話あとがき】


狂気に染まったカイトの猛攻、勝剛は防戦一方――というお話。

しかし、見た目通りの勝負とは思えないですよね?

勝剛はどう反撃に転じるのか?

それは次のエピソードで。

小口君、良い解説者になりそうだなと思って頂けたら(頂けなくても)……

  

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