第235話:間話・混沌を望む影
シュペール公国というのは、ユースティティア王国西部に存在する小規模な国である。
属国というほどではないが、王国との盟約を結ぶことにより、西部の数多の小国の中ではずば抜けた力を持つ国だった。
そんなシュペール公国では、数年前に内乱があった。
武官を味方につけた長男と、文官を味方につけた三男の後継者争いだ。
それなりに長引くと思われたこの内乱は――三男の勝利で終わった。
三男が、『八傑』の1人――『双刃乱舞』を雇うことに成功したからだ。
長男の率いた公国騎士団は、圧倒的力をもった『双刃乱舞』1人に皆殺しにされ、長男は処刑。
三男が公王としての地位に就くことになった。
とはいえ、内乱のツケはあった。
シュペール公国は今回の内乱の件で、国力を落とす結果になったのだ。
それは当然だ。
防衛力としても使えた精鋭――公国騎士団が丸ごと壊滅してしまったのだ。
三男は、確かに文官からの支持はあったが、武官からの支持はない。
頼みの綱の『双刃乱舞』もいつの間にか消えており――西方諸国をけん引できるほどの防衛力を立て直せるほどのカリスマは、彼にはなかった。
財政難に、強気に出てきた近くの西方諸国。
頭は良い物のまだ若く、それほど精神力が強くなかったこともあり、三男はそのプレッシャーに負け、自殺してしまった。
結果として、シュペール公国は混乱。
同盟国である王国から、『聖錬剣覇』の弟子にして剣客・ギルフォードが到着するまで、西方の秩序は失われてしまっていた。
さて、ギルフォードの尽力もあり、一応王国傘下の公爵領に編入することにより、なんとかまとまりを見せた公国だが、今回自殺した三男と、その前に処刑された長男の他に――もう1人――彼らの兄弟がいたことを覚えている人間はほとんどいない。
そう――『次男』だ。
かつて、幼いころに、愚息として、国から追放されたというその『次男』が、今どこで何をしているのか。
それを知る者はこの世にいない。
そして、世に知られることはないだろう。
● ● ● ●
――人の感情ほど制御の利かぬものはないだろう。
喜び、悲しみ、怒り、不安、幸福。
どれもが同じ人間の感情であるのに、意味は全く違い、誰もがこれらの感情から切り離して生きることはできない。
特に――負の感情ほど醜いものはない。
嫉妬、憎しみ、蔑み。
どれほどこれらの感情が、争いを生み出してきたのだろうか。
切り離そうとしても、これらの感情は人に付きまとうのだ。
人と人の違い。
見た目や中身の違い。
価値観の違い。
そう言ったものが、妬みや差別を生む。
人は、他人を見ずに生きることなどできない。
何かしらに劣等感を持ちながら生きるのが、定めだ。
例えば、自分より見目麗しい外見の他人に。
例えば、自分より優れた才能を発揮した人に。
例えば、自分より上の地位の者に。
例えば、自分の持ち物より高価な物を持つ者に。
例えば、自分の子供より優れた子に――。
ベルモンドという少年は、不幸な生まれだった。
公王の次男として生まれながら、将来は期待されず、むしろ周りからは蔑まれて育った。
それもそのはず、その母は大した身分もない、奴隷上がりの使用人だ。
公宮の清掃員であった彼女に目を付けた公王が、下心から手を出し、生まれてしまったのが彼だった。
ベルモンドの兄ロマノフも、弟のシューマンも、れっきとした名家出身の妃である。
彼の出自の歪さは、より顕著に表れた。
物心つく頃に、既にベルモンドは――自身が他の兄弟とは違うことを分からされた。
名家出身の2人の妃は、使用人からいっきに妃の列に加わったベルモンドの母を、事あるごとに批判し、辱めた。
なっていない礼儀作法や、その身に流れる血を、汚らわしい下民の物とバカにされた。
パーティーに出席すれば、いつも母は泣きながら席を後にした。
2人の妃だけではない。
他にも公王の妻は何人もいた。
当然、全員が名家の女たちだ。誰もが――王の気まぐれで妃の1人になった母を良く思っていない。
派閥を作って、母をいじめた。
そんな歪な環境ながらも、ベルモンドは健康に育った。
母が毎夜ベッドの上で泣きはらしていても。
ベルモンド自身が兄や弟に馬鹿にされても、ベルモンドはめげることなく育っていった。
別に、彼の精神力が強かったわけではない。
ベルモンドには生まれつき――感情が無かったのだ。
身体能力に異常はない。
感覚もあるし、痛覚もある。
だが、感情がない。
喜び、怒り、悲しみ。
人が普通感じるはずの感情が、丸ごと抜け落ちていたのだ。
「ごめんね、お母さんが悪いの。ごめんね……ごめんね……」
だから、そう言って泣きながらベルモンドを抱きしめる母を見てもベルモンドは眉一つ動かさなかった。
「穢れた血が……。お前みたいなのが僕と同じ王族なんて……反吐が出るよ」
そう兄に罵られても、何も感じなかった。
ベルモンドには怒りもなければ悲しみもない。
だから人が怒る理由も、嫉妬をする理由もわからない。
すぐにベルモンドが、気味の悪い子供であることは広まった。
不出来な息子を産んだ母親。
同じ表情しかしない忌み子。
そう蔑まれ続けるのも当然だろう。
しかし、皮肉な事が起こった。
忌み子と呼ばれたベルモンドの才能が――兄や弟に比べて明らかに抜きんでていたのだ。
運動神経のいい1つ上の兄に、武芸で負けたことはない。
6歳の頃には、公国の騎士を相手にしても引けをとらない剣の腕を持っていた。
学問が得意な1つ下の弟の知っていることで、ベルモンドの知らぬ事はない。
あらゆる問答でベルモンドは才能を光らせ、学者も教師も、全員を驚愕させた。
―――将来、王に相応しいのは、このベルモンドなのではないのか。
口には出さないが、誰もがそう思った頃だろう。
他の妃たちは、それを知り、怒った。
穢れた血から、王などありえない。
怒り狂った貴族たちはいじめをさらに広げていった。
毎日のように嫌がらせの贈り物が贈られる。
毎日のように脅しの手紙が来る。
母は部屋にこもって1人耐え続けた。
そして、父――公王も愚かだった。
穢れた血の人間が、後継者になんてなったら、末代までの恥、だとか。
ベルモンドが王になどなったら、他の名家に示しがつかなくなる、とか。
妃たちや、その家の者たちが、揃いも揃ってそう吹き込んだ。
父王は、それを鵜呑みにする人間だった。
そしてベルモンドが12になるころ……彼と母は、追放された。
理由は、ベルモンドの愚鈍さ。
勿論、実際は――兄も弟も凌ぐ器の持ち主だったのだが、もはやそんな事関係ないとばかりに、彼らは都から去る事になった。
馬車に揺られ、田舎でひっそりと暮らすことになるという。
もしも再び都に足を踏み入れた場合は、ただでは済まない。
田舎でも、監視は置かれ、自由はないと言われた。
勿論、それにもベルモンドは何も思わなかった。
どうなりたい、何をしたいなどという気持ちはない。
頭はよかったベルモンドは、自分がどこか他人と違っていることは分かっていた。
もとより王となる願望もない。
やれと言われたことをやるだけ。
こんな面倒な事をしなくても、彼は死ねと言われれば死んだだろう。
だが、母は喜んだ。
ひどく弱り、ベッドから動けなくなっていた母は、その田舎暮らしの話を聞くと、数年ぶりに笑顔を見せた。
感情のないベルモンドは、いじめなど別に何とも思わなかった。
精々物が無くなるのが煩わしい程度だ。
ベルモンドに手を上げようとした人間は寧ろ返り討ちだ。
なので、実際いじめがこたえたのは、母の方だろう。
「良かった……これでようやく貴方をこの腐った公宮から連れ出せるわ」
だが、母が喜んだのはそう言う理由だった。
感情があろうとなかろうと――息子を思う……いくら弱っても彼女はいい母親だったのだ。
そんな母と2人、ベルモンドは馬車に揺られ、田舎へ向かっていた。
ベルモンドはいつも通り表情はないが、母はやけに嬉しそうだ。
「ほら、ベル見て見なさい。野ウサギが跳ねているわよ」
「はい、母様」
「あら、服のすそがほつれているわね。向こうに付いたら直してあげなきゃ」
「はい、母様」
ベルモンドの答えはいつも通りだが、それでも母は笑顔で語りかけ続けた。
まるで、この先には幸せな未来が待っていると信じて止まないように……。
―――だが、そう簡単に話は終わらなかった。
公宮から数時間は走ったところで、急に馬車が止まったのだ。
「―――どうしたのですか? まだ先のはずですが……」
馬車の御者に向かってそう言う母だったが、
「いや、ここが目的地ですよ」
「目的地……? でもここは―――」
周囲を見渡しても、ここは木々に囲まれた一本道。
屋敷があるとは思えない。
「残念ですがね、命令なんで」
そして――御者は低い声でそう言い―――懐から大ぶりの剣を取り出した。
「―――え……?」
―――ザシュッ……。
一瞬だった。
悲鳴を上げる暇もなかっただろう。
その大ぶりの剣は綺麗にベルモンドの母の首を――跳ねていた。
ドサリ、と、鈍い音が響く。
母の―――見慣れた顔が、ベルモンドの足元に転がったのだ。
「――さぁて、坊やの方は腕が立つと聞いているんでね、悪いですが――こちらも数をそろえさせてもらいましたよ」
そして――馬車を取り囲むかのような足音が聞こえた。
風貌は、偶然訪れた山賊――といったところだが、偶然なわけはない。
ベルモンドは瞬時に理解した。
父王か妃たちかはわからないが――とにかく奴らが仕組んだのだ。
田舎の隠居なんて、生ぬるい。
証拠は消してしまえとばかりに――ここでベルモンドと母を始末しようというのだ。
だが、それが分かったところで、別にベルモンドは動かなかった。
別に、どうでもいい。
恐怖もなければ、悲しみもない。
そういう事なら、そうなるだけだ。
そう思ったのだ。
「チッ、聞いていた通り―――気持ちの悪いガキだな……。さっさとやっちまうか」
御者の男はそう言いながら、こちらに迫る。
白刃の剣が、不気味に光った。
しかし、そこでふと――ベルモンドは、その剣が反射する―――母の首が目に入った。
目を開けたまま、悲鳴を上げることもなく……ベルモンドの傍に転がってきた、母の頭。
その母の目と―――ベルモンドの目が合った。
「――――――」
見慣れた目だ。
どんなにひどい目に遭っても、どんなにいじめられても、ベルモンドを責めず、ベルモンドを抱きしめ続けた女性。
それが母親であるという事は理解している。
生物学的に血が繋がっているという女性だ。
そう、それだけなのに。
―――なん、だ?
ワナワナと―――胸の奥から何かが混みあがってくる。
泣いていた彼女の声が、脳裏に予備る。
嬉しそうに笑っていた彼女の顔が、思い出される。
わからない。
ただ、胸の奥が張り裂けるように痛い。
頭の中が、記憶が、彼女の声で満たされる。
「―――母様、僕は――」
わからない。
何が起こっているのか分からない。
ただ、何かが込み上げた。
胸の奥から――眠っていた何かが―――。
「―――ほら、楽に終わらせてやるよ!」
そして、剣が振られた。
「――――ッ」
だが、その剣は……空をかすめた。
目にもとまらぬ速さで――ベルモンドが避けたのだ。
「―――何!?」
御者の男の驚きの声。
まさか、この状況、この距離で――ベルモンドが動くとは思わなかったのだろう。
実際――もしも、逆だったら。
この御者が、母親でなく――先にベルモンドを殺していたら、こんなことはあり得なかっただろう。
だが―――。
「―――はは……そうか……これが―――感情か」
少年は――涙を流していた。
今まで一度も流した事のない大粒の涙を―――隠そうともせずに頬から垂らしていた。
「ガキ……何を―――!?」
男が言葉を発する前に、ベルモンドは動いていた。
狭い馬車を曲芸のように周り、男の懐に入る。
「この―――!」
慌てて男がステップを踏んだ頃にはもう遅い。
ベルモンドの出した拳が、男の腕を直撃していた。
カランと音を立てて地面に転がる剣は、ベルモンドの足元だった。
「ふ……ふふ―――ハッハッハ! 下らない……実に下らない! こんな物に振り回されて、王も妃もよってたかって母様をいじめて――」
笑い声を上げながら、ベルモンドは剣をとった。
「―――ふ……ハハハっ……なんだ? なんだこの世界は―――?」
ベルモンドを襲ったのは――初めての感情だった。
12年間、一度も感じた事のなかった、憎しみや、怒り、悲しみ。
母の思い出と共に―――その全てが一度にベルモンドに流れ込んできた。
「――ひぃ……わ、悪かった……た、助けてくれ―――」
渇いた笑いを浮かべながら涙を流し―――剣を持つベルモンドを相手に、御者の男は尻餅をつく。
ベルモンドの狂気に、底知れない恐怖を感じたのだ。
「ハハハッ! 助けてくれ? だって?」
ベルモンドの眼光が鋭く光る。
「残念ながら、お断りだ」
白刃の剣は、振り下ろされた。
――それから数刻も経たずに、その小道には死体の山が築かれた。
山賊の風貌をした男達の死体だ。
唯一その場で生きているのは――返り血にまみれた1人の少年だった。
馬車の中、横たわる母の――首だけになった姿を眺めながら涙を流す―――ベルモンドだ。
母の遺体の横に腰を下ろし、ベルモンドは考えていた。
―――母が何か悪い事をしただろうか。
混乱する頭の中で、必死に記憶に、今日初めて感じた感情を当てはめていく。
ただ、真面目に仕事をしていただけた。
王が勝手に自分を産ませただけだ。
その後も何かしたか?
母は虫一匹殺せない優しい人だった。
一方的に嫌がらせを受けても、仕返しなど一度もしたことがなかった。
只一人、家で耐えて……身体を壊しても、復讐などは一度も口にしなかった。
何だ?
何が母を殺した?
何が自分たちをこんな目に合わせた?
身分が悪いのか?
母が貴族ならよかったのか?
自分の生まれが悪いのか?
自分が兄や弟より劣っていればよかったのか?
自分が普通の子ならよかったのか?
長い自問自答だった。
この日感情を知ったばかりの少年に、答えは分からない。
そんな時だった。
「―――その答え、教えてあげようか」
不意に――後ろから声が聞こえた。
「―――!?」
振り向くと――そこには一人の少年がいた。
青いローブを羽織った……不気味な笑いを浮かべた少年だ。
少年は身構えるベルモンドに構わず、口を開く。
「君の母親が死んだのは――人間の愚かさのせいさ」
「……なに?」
「人の感情や欲。制御できないそれは、無慈悲に他者を傷つける。嫉妬と欲望は、人が人である限り切り離せない。人が人である限りこの現象は終わらない」
少年は不適にそう言い、ベルモンドに手を差し伸べた。
「ベルモンド・ラウ・シュペール。君は――この世界を壊す権利がある」
その青白い手と―――その少年の言葉にはやけに力がこもっていた。
「……世界を、壊すだと?」
「そうだ。君ならば分かるだろう。人の感情に母を殺された持つ君なら、この世界の人間が、どれだけ愚かなのか」
公王や妃に――ではない。
ベルモンドの母を殺したのは、人の感情そのものだと――この少年は言った。
「だから、世界に思い知らせてやるんだ。憎しみの痛みを――君とお母さんの痛みをね」
「そんなことが……できるのか?」
「ああ、僕なら……僕らならできる。契約だよ、ベルモンド。人に人の愚かさを教えてやるんだ」
その日、ベルモンドはその迫力と、言葉に――揺るぎない決意を持って頷いた。
シュペール公国の次男は、ここから暫くの間、捜索されたが、結局見つかる事はなかった。
次男を逃がしたという事実は――その後公宮によって揉み消され、闇に葬られることになる。
● ● ● ●
「―――」
「おや、お目覚めかいベルモンド。珍しく遅いじゃないか」
「――ラトニーか」
青いローブの少年、ラトニーの声に、男は顔を上げた。
「……ラトニー、何度も言っているだろう。ベルモンドは既に捨てた名だ」
そう言いながら男は立ち上がり――既に羽織っていたフードを、より深く被る。
「ははっ、ごめんよ。どうしても―――昔の記憶が強くてね」
そういってラトニーはかぶりを振る。
「さぁ行こう。アルトリウスに気づかれる前に、色々と済ませておかないと」
「……ああ」
そう頷き――かつてベルモンドだった男は、部屋の扉を開けた。
暗い夜道に――混沌を望む影は瞬く間に消えていった。




