第212話:もがれた翼
『どうして…どうして行ってしまうの?』
『―――どうしてもさ』
少女の言葉に、その青年はそう答えた。
『貴方が…やる必要はない。貴方は充分頑張ってきた。死に物狂いで帝国を倒し、平和な時代を築いた。これ以上いったい何をするっていうの?』
『…ニルヴァーナの滴は、俺にしか封印できない。他に任せるわけには行かないだろう?』
『でも――そうしたら貴方の命は…』
『大丈夫。確かに俺の命は尽きるだろうが――きっと君は、また俺と会える』
『嫌だ! 私も――私も一緒に…』
少女の言葉に、青年は答えない。
『―――最後の契約だ』
『――!』
『君は残り―――俺の…俺達のやったこと、俺達のやりたかったこと。その歴史を紡ぎ続けろ。アイツに――分かるようにな』
『――待って!』
しかし、彼は歩みを止めない。
追いつけない。
――どうして…私を一人にするの?
やっと会えたのに。
やっと共に生きれる人と―――。
『――ねぇ、どうして? ―――オルフェウス…』
小さい響きは誰にも聞こえなかった。
「――――」
灰色の少女は目を開けた。
睡眠など必要としない彼女だが、珍しく「夢」のような物を見た。
700年間、一度も忘れた事のない記憶だ。
――こんなことを思い出すなんて…いったい何の予兆かしら。
そう、少女が思った時だった。
何やら……懐かしい気配を感じた。
「…これは…セントライト――」
しかもその方角は、奇しくも、「彼」と別れた場所―――。
「―――そう、『ニルヴァーナの滴』を…」
ぽつりとそう言って―――少女は歩き始めた。
● ● ● ●
―――強いのも当然だ。
もがくように立ち上がりながら、俺は思った。
『獅子王』セントライトーー。
歴史上、オルフェウスに次いで有名…いやむしろユースティティア王国では最も有名で――偉大とされる初代国王。
親友のオルフェウスと共に、数多の戦場を駆け抜け、『初代八傑』としてイオニア帝国を打倒した立役者。
オルフェウスを魔道の祖とするならば、剣の祖と言ってもいい―――歴史上有数の剣客だ。
神撃流、神速流、水燕流、甲剣流――。
現在この世界を席巻する四大流派だが…これを築いたのは、彼だと言われている。
――さて、どうするか…。
にわかには信じられない事だが…実際にその「力」を目の当たりにすると、コイツがセントライトであることが良くわかる。
その動き、その速さ、その読み―――。
全てが、現代のあらゆる剣士を超越しているような、そんな気がするのだ。
俺の頭を過るのは、全身に伝わる張り裂けるような痛みと、敗北の予感。
そして――疑問。
どうして彼が現代に現れたのか。
かつてオルフェウスと共に戦ったという彼が―――何故《調停者》と共にいるのか。
いや――そもそもどうして《調停者》そのものになっているのか…。
コイツから感じる雰囲気は、ラトニー達と同じなのだ。
「―――この程度か?」
ぼやける視界で、赤銅色の髪の男――セントライトは音もなく近づいてくる。
俺は、魔力で身体を動かし、彼に向き直った。
「―――どうしてアンタが…《獅子王》が王国にこんな仕打ちをする? どうして――友を、オルフェウスを裏切るんだよ…?」
投げかける言葉は正直な疑問だ。
この王国は、セントライトが作った物だ。
それなのに、何故この国を――めちゃくちゃにしているのか。
そうまでして蘇って…いったい何をしたいのか。
セントライトは表情を変えない。
「知ったような口を聞くな。ここは余の国であり、奴は余の友だ。貴様には関係あるまい」
「…そうかよ!」
掠れた声で叫びながら俺は足を動かした。
対話は無駄のようだ。
剣を――剣を振る。
こいつが本物なら、「技」は全て通用しない。
奥義に頼らず、純粋な剣の速度で勝負する。
勝機はそこしかない。
「―――っあああああ!」
全身が―――痛い。
内臓がいくつか損傷している。
治癒が全く間に合わないのだ。
それでも…!
「――それが、全力か?」
「―――ブグッ‼」
赤銅色の影が走った。
――見えない。
動きが読めない。
まるで残像のように、赤銅色の髪が視界の端を捉えるだけ。
目いっぱい反応しても――俺の動きは完全に読まれている。
その銀色の瞳に全てが見透かされている。
剣は避けられ、指に止められ、通らない。
それなのに、奴の拳は俺の顔面を強打する。
奴の蹴りは俺の腹を打ち抜く。
――強い。
単に速いだけじゃない。
動きの一つ一つに――歴史の重みが詰まっている。
鍛錬した量の差。
駆け抜けた戦場の数の差。
相対してきた強者の差。
その全てが、如実に現れている。
「――ぐ…ぶ…」
内臓から込み上げるような血を口元から吐きながら…剣を杖に、俺は起き上がる。
セントライトは、正面で…どこか笑みを浮かべている。
「一つ、いいことを教えてやろう」
「…なんだと?」
そして、思い出すかのように語り出した。
「この武の世界―――達人と呼ばれる領域には、もう一段上がある」
「上…?」
「あらゆる技、あらゆる術――。全ての武の頂点を極め、昇華して――人は《達人》と呼ばれるようになるが……尚且つそれでも強くなることを諦めなかったその先――果ての果てで、余はその境地に立った」
強さの頂点……それは、達人の域――シルヴァディが言うところの『第四段階』だと…俺はそう思っていた。
その先が――あるというのか。
「――『明鏡止水の極み』。貴様の剣が俺に当たらないのはそこに至っているか至っていないかの差だ」
「―――明鏡止水…」
「――故に…」
そして、フッと―――セントライトの姿がブレる。
「―――!?」
「――簡単に後ろを取られる」
聞こえたのは、背後からの呟き。
言葉を体現するかのように、俺は後ろを取られていた。
「―――ッ!」
反射的に、剣を振る。
「――簡単に動きが読まれる」
だが剣は宙を切る。
肉を断つ感触などまるでしない。
俺が剣を振る前から、俺の剣は避けられている。
「……そして、簡単に当てられる」
「―――ぐッ!!」
獅子王の、腕がブレた。
衝撃と共に、ミシミシという嫌な音が、俺の腹から聞こえてくる。
それが奴の拳が当たったからだと俺が気づいたのは―――既に宙を舞い、吹き飛んでいる最中だ。
―――マズい。
とにかく、一旦体制を…。
頭でそう考えた。
このまま殴り合っても、勝ちは薄い。
全てが、負けている。
剣を持っていない剣士に、ここまでしてやられているのだ。
「―――!」
俺は―――飛んだ。
『飛行魔法』。
俺だけの持つ、制空権。
接近戦は駄目だ。
距離の取れるここから――大出力の属性魔法でケリをつける。
奴に優位を取れるとしたらここしかない。
ひりつくような寒さと、風に揺られながら、俺は上昇する。
塔が小さく見えるほど――大空へ。
「―――はぁ…はぁ…」
心臓が…身体が悲鳴を上げているのが分かる。
ここまで常に最大出力。
限界がどこかと言われれば、等の昔に過ぎている。
速いうちに勝負を決めないと、終わる。
雲も、星々も間近に見えるこの上空で、俺は塔を見下ろす。
奴は―――下に……。
「―――頭が高いな」
「―――!?」
思考が追い付かなかった。
だってそれは―――ここは…。
「なん…で…」
「ふん、この空が、貴様だけの世界だとでも思っていたか?」
奴はいた。
俺のすぐそば―――。
いや、真上。
幻想的な夜空をバックに――赤銅色の髪は風に揺られていた。
「――『飛行』は…歴史上誰も使えなかったって…」
「ほう、そんなことになっているのか」
興味深そうにセントライトは言う。
「確かに―――『飛行』を使える奴は少なかった。余もオルフェウスも――後世に残さなかった魔法の一つだろうな」
「―――ッ!」
当然のように…オルフェウスも使えるってのか…。
「―――クソッ!」
「ふ、空中戦は久しぶりだ…」
「―――ッガァアアァアァアァアッ!!」
考えている暇はない。
魔力を全開にし――俺は奴に突進していく。
この場で必要なのは身体能力ではない。
いかにどちらが『飛行』を上手く使えるか。
どちらの魔力が持つか――。
「――オオオ…ッ!」
「――そう焦るな」
――当たらない。
俺の剣は一撃も掠めない。
俺がここまで習得して、自在に飛べるようになるのに何年も必要とした『飛行』を…奴は軽々と扱う。
当然か。
練度が違う。
俺はまだ――第四段階に達してから1年程度しか経っていない。
まだまだ…歴史上の英雄になんて及びもしないだろう。
だから、もっとだ。
「――どうした? 当たらんぞ?」
「―――くッ!」
心臓が――パンクしそうだ。
限界を――知らせる音がガンガン聞こえてくる。
関係ない―――。
もっとだ…もっと速く―――。
越えろ…700年の歴史を。
俺がここで止まったら――終わりだぞ。
キリキリと全身が悲鳴を上げる。
思い出せ。
『軍神』と相対したときはもう少し――俺は速くなれた。
だったらまだ…。
『――いいのか?』
声が――聞こえた。
『鴉が折角成れの果てを見せてくれたのに…ちっともこりてないな…』
――黙れよ。
『もう後戻りはできない。これ以上使えば…』
いいから黙って…よこせ―――
「―――ガァアアアァァアア‼」
痛みとか、もうどうでもいい。
視界が――赤い。
口の中は血の味だけだ。
この天空は気圧も低いはずなのに、ちっとも寒くない。
色々な部分がおかしくなっているのが分かる。
だがそれでも、俺の動き――俺の魔力は――加速する。
「―――ほう、これは――」
空中を駆け抜ける俺に―――初めて奴の目が見開いた。
「―――オオォォオオォオッ!」
俺の命が切れるよりも速く―――。
全てを加速させて…。
剣を振れ…振り抜け!
「―――」
―――ザシュ。
鮮血が舞った。
「……喜べ。20の頃の余よりも――速い」
そんな台詞と、確かな手ごたえ――。
そして、赤みのかかった視界の端に見える――重力に引かれ、落ちていく腕。
それは、奴の「左腕」だ。
俺の黄金の剣閃が奴の左腕を切断したのだ。
――やった。
―――勝てる…。
この速度なら――足りない技を、読みを――押し切れる!
「――ラアァァアアアァアアァア―――ッ!」
魂から声を出すように俺は距離を詰める。
『飛行』速度最大。
マッハを越えろ。
ひりつくような空気と、雲の中を駆け抜ける。
死角となった左から、俺は黄金の剣を振りに行く。
しかし――。
「だが、残念ながら―――」
「―――!?」
「オルフェウスはもっと上だった。そして―――」
赤く染まる視界の中、俺は思わずその光景に――目を疑った。
「―――今の余は『不老不死』だ」
俺の剣は―――再び止まっていた。
いや、止められていた。
2本の指―――それも、斬ったはずの『左腕』に…。
「そん…な」
いつの間に再生したのか…。
その斬ったはずの腕は――しっかり肩と繋がっていた。
衣服は無いことから、それが「再生」だということがわかる。
でも、今の――今のほんの一瞬で再生したというのか?
上級の治癒術でも治らないと言われている「部位欠損」を――こんな一瞬で?
「―――なんだ、知らないのか? 『神族』は皆こうだ」
なんだよ…『神族』って…。
これでも、これでも届かないっていうのかよ…。
何なんだよコイツは…。
「そして―――これがもう一つの『神族』の能力…」
動きの止まった俺に、まるで試すように、奴は右腕をかざす。
そして―――。
「―――――‼」
全身を――寒気が襲った。
恐怖―――。
悍ましい何かが―――俺の頭に入り込んで―――。
「スロウの『絶望』の力だったか……要するに――『イオニア帝国皇帝』が使っていた能力だが」
頭が…ガンガン思考を遮る。
「――う…あ――――」
身体が…動かない―――意識が…。
「『絶望』は人の感情―――貴様が貴様たる由縁を全て破壊し尽くす、まさに『災厄』の力―――。と、まぁどうせもう聞こえていないか」
最後に聞こえたのは、そんなセントライトの声と―――
俺の身体が、空気を切り裂き、落下していく感触だった。




