第189話:聖地の正体
北方――。
そこにあるのは、一目で見渡すことのできない―――まるで海かと錯覚してしまうほど広大な面積を持つ湖。
その名を『龍眼の湖』。
雪景色と針葉樹が囲うその湖は、初めて訪れた人間に幻想的な感想を抱かせることは間違いないだろう。
もっとも、『神聖教』の神徒達が『聖地』と呼ぶのは、この湖の事ではない。
彼らの言う『聖地』とは、その湖の中心―――天まで高くそびえ立つ――巨大な漆黒の塔の事だ。
一般的にあまり認知されていないこの塔は、そのまま湖の名を取って『龍眼の塔』――あるいは、その塔の古の歴史を知っている者からは、『封印の塔』と、そう呼ばれている。
長らく人など立ち入っていなかったこの塔だが―――現在その漆黒の塔へと至るのは、それほど難しくはない。
なにせ、湖のほとりからその塔までは、頑丈な土の道が作られているからだ。
少し前に―――大量の人員を導入して作られたこの道を通れば、誰でも簡単にこの塔へ入る事ができる。
もちろん―――こんな辺鄙な場所をわざわざ訪れる一般人はいない。
この塔にいるのは概ね――3種類の人間だ。
まず、質素な服装に足かせを付けられて強制的に塔の発掘作業を進める―――奴隷のような人々。
最近になるまで人の立ち入ることのなかった塔の中は、さながら古代の遺跡のように風化しており、折角あった階段も崩れ、石碑もボロボロになっている。
そういった塔の中の修復をしているのが彼らだ。
次に―――それらの労働者たちに指示を出し、こき使う指導者層の人々。
特徴的なのは、誰もが白いローブを身に纏う人間だということだ。
彼らの指示によって、この塔の発掘作業は進められ―――既に最上階までの修復も完了している。
そして、最後は、それ以外の人間だ。
「――――暫くここでおとなしくしていろ」
「――きゃっ!」
冷たい声と共に、エトナをその場所に放り込んだのはここまでエトナを連れてきた黒フードに、仮面をつける――『鴉』と名乗った人物だ。
「どうやら―――司教共が来るのは少し先らしい。そのうち呼びに来るだろう」
「あ、ちょっと!」
ガッシャン!
エトナの抗議の声も空しく―――扉は閉められた。
大げさに大きな鍵までかけられ、鉄格子の先で、『鴉』の立ち去っている姿のみが見える。
――そう。
ここは塔の下層に作られた牢獄。
『聖地』と呼ばれるらしい塔の中に連れてこられたと思ったら、いきなりここに入れられたのだ。
まるで犯罪者のような扱いである。
「全く……用があるから連れてきたくせに……」
そう言ってエトナは悪態を吐いた。
別段拷問をされたわけでもないのが救いか。
肌寒いことを除けばそれほど身体に問題も見られないし―――暫くはこの状態でも耐えられそうではある。
見ず知らずの場所で牢に入れられても彼女の気骨が折れないのは、やはり信じている彼の存在があるからだが―――。
「―――ほう、これはこれは、また可愛らしいお嬢さんが来たもんじゃ」
そこで不意に―――正面から声が聞こえた。
老人の声だ。
「―――!」
慌てて顔を上げると―――声の主は、通路を挟んで向かい側、反対側の鉄格子の中で囚われた老人だった。
水ぼらしい服に、大きな眼鏡をかけた小柄の老人だ。
どうやら自分の他にも、牢屋で捕らえられていた人がいるらしい。
「ふむふむ。ワシも年甲斐もなくときめいてしまいそうじゃわい。なぁ、兄ちゃんもそう思うじゃろ?」
「―――別に、私は、そんなことは……」
そして、老人の奥からもう一人の人物―――若者が顔を出した。
向こうの牢屋は相部屋だったらしい。
だが……
「……!?」
現れたその金髪の青年の顔に―――エトナは見覚えがあった。
「―――トトスくん?」
「―――‼ どうして私の名を……」
そう、その青年は―――トトス。
以前、エトナを護衛したいと申し入れた青年と、まるで同じ顔をしていた。
「えっと、覚えていないの? 王城の外へ出るとき、図書館まで護衛をしてもらったんだけど……」
「………」
エトナが説明をすると、トトスは怪訝な顔で何やら考え込む。
正直、エトナとしても王城を出た後の記憶は混在していて、目覚めてからも自分のことで精いっぱい。
彼の行方などに頭を傾ける余裕はなかったのだが…。
「―――おそらくだが……君の会ったトトスは―――トトスではない」
トトスと思われる金髪の青年はそう断言した。
「―――!?」
「先ほど、君を連れてきた仮面の黒服がいるだろう? 奴は史上最悪のアサシン…『鴉』。暗殺者の技術の一つとして―――奴はあらゆる人物に変装―――いや、そういった次元を超えた成り代わりをすることができる。君がどうして王城にいたかは知らないが―――君と出会ったトトスは、私ではなく、間違いなく奴だ」
「――そんな……」
「なにせ―――私はあの『鴉』に敗北して以来、もう数か月はここにいる。悪いが君と会った記憶など全くないからね」
青年――トトスは苦笑する。
変装――成り代わり。
トトスと出会って日が浅いエトナは、確かに変装だったと言われても、気づかなかっただろうし、納得はできる。
だが、おかしい。
トトスはもう数か月はこの場所にいるといった。
つまりは、エトナを攫うまで王城にいたトトスは、長らくその『鴉』であったということになる。
その間、付き合いの長いはずの弟弟子や、師である『聖錬剣覇』にバレずに、ずっとトトスを演じていたのだとしたら―――それは変装とか、そういった次元を超えた、異常な技術だ。
「…驚くのも無理はないさ。だが――そういった不可能に思えることを可能にするのが『八傑』だ。あの『鴉』という黒服―――『八傑』かどうかは分からないけど、間違いなく師匠と同じような域にいる人外だよ」
「『八傑』……」
「なにせ王国を混乱に陥れている『人攫い』は奴単体の仕業だからね……。私も実際に剣を合わせたからそう言えるだけだが……全く、親衛隊が手玉に取られるわけだ」
トトスはそう言ってため息を吐いた。
彼は数か月こんな場所にいるということだけあって、肌は青白く、どこかやつれているように見える。
「―――そうじゃ、人攫いと言えば―――嬢ちゃんも攫われてきた口じゃろう?」
「え、う、うん。そうだけど」
そこで、黙って聞いていた老人が口を開いた。
「普通、攫われてきた奴は―――上の階で発掘作業をする奴隷にされるはずじゃが……」
「奴隷?」
「ここに来る途中、見たじゃろう? 鎖で繋がれて―――白いローブの奴らにこき使われている奴らじゃよ。あれらは元は『人攫い』に遭った――善良なる王国民じゃ。もっとも、ここでは『神』への信仰へ目覚めないかぎり、真っ当な人間としては扱われんがな」
「………」
「『神聖教』―――狂った宗教じゃよ。若い嬢ちゃんは知れないかもしれないが……アレは間違いなく『神教』の生き残りじゃ。神とかいう物を信じ――それの為ならばどれほど残虐なことも平気でやる。そんな奴らじゃよ」
老人は思い出すかのようにため息を吐く。
「まぁそれはともかく……どうやら発掘奴隷にされていないところを見ると、嬢ちゃんもワシ等と同じ――特殊な事情で攫われたようじゃな」
「特殊な事情……?」
「そうじゃ。まぁ兄ちゃんは、単に素手でも暴れて面倒じゃから檻に入れておるんじゃろうが」
「人聞き悪いですよ…」
「はっはっは、あの時はスカッとしたわい。『鴉』の不在時は、丸腰の兄ちゃんを止めるのに白服が十人がかりじゃったな」
「あの時は…もう少しで脱出できたんですがね。それでも私を生かしているのは他にも理由がありそうですが」
「はっはっは、まぁこんな場所じゃ。生きていたもんが勝ちじゃよ」
牢に閉じ込められているとは思えない明るい笑い声と共に、老人は続ける。
「そうじゃ、事情の話じゃったか。そうじゃな、例えば――ワシの場合は、学者としての知識を狙って攫われた」
「―――!」
「―――これでもワシ、そこそこ有名な考古学者でな。特に神聖文字の研究では第一人者と呼ばれている―――」
「―――ピュートン博士…!」
老人が言い終わる前に、エトナが声を上げた。
「―――ほう、よく知っておるな。そこそこ有名とは、少し盛ったのじゃが……」
老人――考古学の権威であるピュートンは、驚いた顔をする。
慌ててエトナは補足した。
「いや、その―――私も、古文の研究をしていて、王国では博士に話を聞こうと……」
元々―――エトナは王国では古文書の事について調べるつもりでいた。
ピュートンは王国の考古学者の中でも頭抜けて有名であり、王国滞在中に尋ねてみたいとは思っていたのだ。
考古学自体はマイナーな学問であるので、一般的な知名度はそれほどではない。
「……なるほど、嬢ちゃんも―――神聖文字関連か……奴ら、どうしても《棺》を開けたいらしいのう」
納得いったように、博士は頷いた。
「―――棺?」
出てきたワードに、エトナが聞き返す。
「……この遺跡―――塔の最上階、屋上の祭壇に置かれた、《漆黒の棺》の事じゃよ。その中に―――《神》の残した力が眠っていると言われている。じゃがその棺を開けるためには、石碑に書かれた神聖文字を解読し、詠唱しなければならないのじゃ」
力の眠る棺に――それを開くための神聖文字の詠唱。
ここまでくれば―――エトナがここに攫われた理由も、流石にわかる。
「――そっか、やっぱりそれで……その『神聖文字』が読める私を…」
「……嬢ちゃん、何と言った?」
何気なく相槌として呟いたエトナだったが――老人、ピュートン博士は目を丸くして聞き返してきた。
「今…『神聖文字』が読めると、そう言ったのか?」
「え? うん……『古文書』に書かれていた文字が『神聖文字』なら―――読めると思う。何となくだけど」
「……『古文書』、とは?」
「うん、その―――大地を追放された神々の記憶の話が記された――分厚くて古い本だけど……そういえば、どこかに行っちゃったな…」
「なんと!」
エトナの答えに、ピュートンは驚きの声を上げる。
「それはただの『古文書』ではない。聖典―――『神聖書』の原本じゃ……まさかまだそんなものが残っているとは。王国内は探しつくしたと思っていたのじゃが」
「――あれは、王国じゃなくて、オスカー君……ユピテルのファリド・プロスペクター家って貴族の家で代々保存されていたみたいだから……」
「……なるほど、ユピテルか…ということは、お嬢さん、ひょっとして王国人ではないのか?」
「うん、私は―――ユピテルから来た穏健派―――亡命団だから」
「……そうかそれは―――災難じゃったの……」
「―――まぁ、うん」
答えると、ピュートン訝し気に目を細めた。
そして、少し興奮していた気を落ち着けて―――静かに再び口を開く。
「……嬢ちゃん、もう一度聞くが、本当にその古文――『神聖文字』が読めるのじゃな?」
「うん。博士も……読めるんじゃないの?」
「はは、残念じゃが、ワシは書かれていることを知識と情報から予想しているだけで、《読め》はせん。じゃから―――《棺》の石碑の文は全くわからなかった」
「………」
「……嬢ちゃん、難しい事かもしれんが―――」
そのピュートンの声色は、先ほどまでとは比較にならないほど真面目な物だった。
「いくらあの神徒どもに脅されても―――その《棺》は絶対に開けてはならん。アレは――700年前、世界を混乱と恐怖に陥れた《絶望》の力じゃ。あらゆる資料全てに――そう書かれておる」
「絶望の……力―――」
「そうじゃ。それこそユピテルの英雄オルフェウスが―――自らの命を削って封印したと言われる禁忌の力。あの神徒共が何を考えてその力を求めているのかは知らんが――」
老人は一度そこで間を空けて……
「一度開けば―――王国だけではない。世界が―――終わる」
そう、静かに告げた。




