第180話:深淵の谷
《深淵の谷》―――。
王国の王都から少し離れた場所にある秘境の一つだ。
もっとも、距離にすればそれほど王都から遠いというわけではない。
ただ、そこに至るまでの道が存在しない事と、険しい山の中にあるということで、秘境の部類に入るらしい。
数少ない情報によると、《深淵の谷》の深さは、文字通り「深淵」であり、人間の至れる深さを越えている。
ロープやハシゴなどで降りられる深さではないということだけは分かっており、この谷に降りるなんてことは、自殺行為だと言ってもいいだろう。
「―――でも、どう考えても―――谷底よね」
そんな《深淵の谷》の深く暗い闇を見下ろしながら、赤毛の少女――ヒナは呟いた。
「そうだな、周りには建物どころか、橋すらないからな」
既にこのあたりの探索は一通り終えている。
それでも、『闇狗』の住処らしい物は欠片も見当たらなかった。
『闇狗』がいるとしたら、この谷底以外考えられない。
―――そう、ここは《深淵の谷》。
俺とヒナは『闇狗』を訪ねて、ここまでやってきたのだ。
● ● ● ●
あの夜―――謎の少女と甲冑の男に出会った後、拠点に戻るころには深夜になっていた。
「―――もう、どこに行っていたのよ!」
「―――心配したんですから!」
俺は帰るなり、大目玉を食らった。
どうやら俺が消えたということで、残された皆は大騒ぎになっていたらしい。
手すきの隊員を集めて、今にも捜索隊を出そうとしていたところだったとか。
ただでさえ慣れない土地、未知の敵もいるかもしれない状況で、急に俺が消えてしまっては彼らが焦るのも無理はない。
悪いことをしてしまった。
平謝りしながら、あった出来事をところどころかいつまんで話した。
白い甲冑の騎士と出会い、彼から、探し物ならば、『闇狗』を頼るといいと言われたこと。
そして『闇狗』の居所は、《深淵の谷》であるということ。
省いたのは、灰色の少女の存在だろうか。
少女の言っていたことは、正直要領を得なかったし、現実にいたのかもよくわからなかった。
それに――なんとなく、これは俺自身の問題である気がした。
皆、黙って俺の話を聞いていた。
普通、謎の騎士に出会った話なんて突拍子もない事だが、皆疑いもしなかったのは、俺が信頼されているからだろうか。
「その白い甲冑の騎士―――しかも隊長が唸るほどの実力者となると―――『白騎士』でしょうか」
「『白騎士』って―――《八傑》のですか?」
白い甲冑の騎士については、シンシアとリュデがそう評した。
甲剣流を極めた剣士『白騎士モーリス』。
実は、俺も聞いた事がある。
シルヴァディ曰く―――唯一甲剣流で彼と並ぶ強者の領域まで上り詰めた男だ。
確かに、あの騎士は――《八傑》と呼ばれても納得できるくらいの圧があった。
救いは、話した感じ敵意は感じなかったことか。
兜のせいで顔は見えなかったが、どこか気持ちのいい人物でもあり、好感は持てる。
まぁ、もう一度会いたいかと言われれば否だが。
「しかし――《八傑》ってそんなポンポン出会う物なのか?」
「さぁ? でも実際アルトリウスは、既にこれまで多くの二つ名持ちと遭遇しているわけだし……今更じゃない?」
「……」
その通りだが、今更と言われるとは思わなかった。
俺よりもヒナや周りの方が落ち着いているのはどうしてだろうか。
「隊長はあまり自覚はないようですけど……『烈空アルトリウス』も、そんな世界に名だたる二つ名持ちの1人だってことを考えれば、それほどおかしくですよ」
「―――そうか」
シンシアが誇らし気に教えてくれた。
要人が要人と知り合うのは、そんな珍しい事でもないということか。
確かに―――それほど自分を評価したことはない。
未だに弟子気分が抜けていないというのもあるが――なるほど、俺もそれなりに有名人か。
まぁ、そんな話を聞いてもあまり浮かれた気分にならないのは、状況が状況だからだろうが。
「それで―――どうする気?」
「なにがだ?」
「《深淵の谷》、行くの?」
ヒナがストレートに聞いてきた。
俺は少し間を開けて答える。
「――ああ、行くつもりだ。山を越えるのは普通なら時間がかかるが―――幸い俺には《飛行》がある。空路で直線コースを取れば、それほど時間をかけなくても済むだろう」
「――! まさか隊長、1人で行くつもりですか?」
驚きの声を上げたのは、シンシアだ。
「騎士の話が本当だとしても、相手は正体不明の二つ名持ちです。隊長が行かなくとも、誰か隊員を派遣すればいいじゃないですか」
「シンシア、そんな悠長なことしていられない。相手が二つ名持ちだからこそ、直接俺が行く意味があるだろう」
「―――でも、隊の指揮は……」
「シンシアに任せる。イルムガンツを落としたのは君だろう?」
白騎士は、『会えるかはそなた次第』ということを言っていた。
おそらく――俺自身が行くことが必要なのだろう。
ここで、行かないという選択肢を取るつもりはない。
残していく隊の指揮も、シンシアがいれば問題はないはずだ。
「――ッ! ですが……」
シンシアは歯噛みする。
心配されているのだろう。
先ほどの短時間いなくなっただけでもあの騒ぎ用だ。
気持ちもわからなくもない。
だが―――
「―――私も行くわ」
「――ヒナ……‼」
シンシアの隣で、冷静に声を上げたのは、ヒナだ。
「空路と言っても―――常に飛んでいくわけじゃないでしょう? 山間地帯だけなら、私1人くらい抱えて飛べるはずよ」
確かに―――ヒナはその器の大きさに反比例するように小柄だ。
短い距離なら、彼女1人を抱えていくこともそれほど難しくもない。
一度《飛行魔法》を教えた彼女だからこそできる提案だろう。
「―――だが……」
「―――アルトリウス、貴方が家族やドミトリウスさんのことで焦っているのは、痛いほどわかっているわ。でも、『闇狗』は師匠――ユリシーズすら凌駕する未知の魔法士よ。アルトリウスがすごい事は知ってるけど―――もしもその『闇狗』との間に何かあったら……どうするのよ」
「……」
確かに、ほんの数時間俺が消えただけで大騒ぎになるくらいだ。
彼女たちが心配するのも当然だろう。
家族やエトナの事を救うために俺に何かあっては本末転倒―――と、ヒナはそう思っているようだ。
それに、俺が焦っているというのは、確かに的を射ていることだ。
「大丈夫。足手纏いにはならないわ。私はシンシアと違って隊の指揮もできないし、リュデみたいに王国の情報に長けているわけでもないから、ここに残っても仕方がないし」
ヒナは真っすぐ俺を見据えていた。
紅に真っ赤に燃える瞳は、やけに澄んでいるようにみえた。
「……わかったよ」
俺は頷いた。
● ● ● ●
というわけで、深淵の谷まではヒナとの二人旅になった。
隊の指揮はシンシアに。
使節の方向性の総括はリュデに一任する。リーゼロッテとの連絡も彼女に任せた。
出発する俺達を、シンシアは少し心配そうに。リュデは心配しつつも信用して送り出してくれた。
勿論気楽な旅ではない。
知らない土地から知らない土地に行くのだから、色々と不安なこともある。
だが、やはり行かない選択肢はない。
方向感覚を失わないために、時折空に上がって方角を確かめ、急ぎつつ、しかし慎重に進んだ。
なにせ、深淵の谷までの分かりやすい道はない。
道なき道を進むのだから、警戒を怠るわけにも行かないだろう。
当然、途中に宿なんてあるわけもないので毎日野営だ。
最初は1人きりで行く気満々だったが、いざ出てみると、ヒナの存在はありがたかった。
夜も交代で火の番ができるし、話し相手がいるというのは、精神的にも助かる。
不満と言えば、リュデもチータもいないせいで、食事が味気ない物になったことくらいだろうか。
ヒナの女子力は――俺に毛が生えた程度だ。
2人で協力しても、芋スープが限界だった。
他に問題――というか、起こったことと言えば――。
「―――アルトリウス」
最初の晩、もう眠ろうとしたとき、不意にヒナが話しかけてきた。
少し真面目な顔だった。
「その、白騎士に会った時のことで―――まだ他に言っていないことはない?」
「へ?」
「別に、違うならいいんだけど―――何か隠しているような気がしたから」
「―――」
その時は、内心少しどきりとした。
確かに俺は―――白騎士に会った理由―――謎の少女のことについて、話していない。
少女が『過去』を見れるといったことや、俺やジェミニは見えないと言った事。
そして、少女が口にした『彼』という存在。
俺自身が要領を得なかったということもあるが、如何せん、どうしても話す気にならなかった。
「……別に隠し事をするなとは言わないわ。でも、もしも大事な事なら―――何か力になれるかもしれないし、なるべく早く打ち明けて欲しい、と思って」
「……」
「―――なんてね。じゃあ、おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
それ以上、彼女が追及することはなかった。
確かに―――ヒナは俺が今まで出会った中で最も優秀な人だ。
彼女に相談すれば、少女の残した謎の言葉についても、何かわかることもあるかもしれない。
―――隠し事、か。
燃える火を眺めながら、俺は思う。
隠し事なんて、いくらでもある。
俺は、転生者だ。
異世界からこの世界に転生された人間。
俺は本来のアルトリウス・ウイン・バリアシオンではない。
ルシウスの事や、特異点の事。
俺の転生に関係するようなことを、誰かに真面目に打ち明けたことはない。
―――あの灰色の少女も―――もしかしたら俺の転生に関わっているのではないか。
俺が少女の事を皆に詳しく打ち明けなかったのは、そんな予感めいた思いがあったからかもしれない。
さて、そんなことがありながらも、1週間と少しで《深淵の谷》には到着した。
1人ならばもう少し早く着いたとも思うが、体力的にも精神的にも既に満身創痍になっていた可能性はあるな。
道筋は、途中、山間地帯を抜けるためにヒナを抱えて飛ぶ際、抱っこするかおんぶするかで少し揉めた事を除けば、順調過ぎるほど順調だった。
ちなみに、結局おんぶになった。正面からは恥ずかしいらしい。
「ち、違うわよ! いざというときおんぶの方がアルトリウスの両手が空きやすいでしょ!」
ヒナはそんなことを言っていた。
正直どっちも密着する事には変わりないので、おんぶでも最初はお互い顔を赤らめていた。それこそ今更である。
「―――当たらないな、とか思っていないでしょうね」
「……まさか」
飛びながら若干冷や汗を掻いたが、問題ない。
《深淵の谷》は切り立った山岳地帯の中に目立つ―――長い谷だった。
自然にできたはずなのに、不自然なほど幅があり、それなのに底が見えない、何とも恐ろしい谷だ。
周りにはまばらに木々があるだけで、建物も、人の気配もない。
「―――それで、どうするの?」
「降りてみるしかないだろう」
「飛び降りるってこと…?」
「ああ」
「……」
流石のヒナもごくりと唾を呑む。
常人なら、この谷に降りるなんてことまず考えない。
要するに身投げと同じだからな。
俺も緊張している。
俺達には魔法があるとはいえ、恐怖心がないわけではないからな。
「それとも、地道に階段でも作る?」
「いえ…行きましょう。底に着くタイミングさえ間違えなければ《飛行》でなくとも―――風魔法とか当てれば何とかなるし――」
「そうか」
まぁ、少し怖いことを除けば、よっぽど問題はないはず。
俺は《飛行魔法》が使えるし、ヒナも《飛行魔法》とまでは行かなくても《浮遊》程度ならばできる。
戻ってくるのも―――《飛行》を使うか、それこそ最悪、時間をかけて土魔法で階段でも作ればいいだろう。
一流の魔法使いが2人もいるのだから、きっといくらでも方法はある。
むしろ問題は、底に降り立った後―――『闇狗』がいなかった場合。
もしくは、『闇狗』はいたが、協力関係を築けず、戦闘になった場合。
前者ならば、無駄な時間を過ごしてしまっただけで済むが、後者の場合は、魔力も残しておかないとまずい。
そう考えると、ヒナも一緒であるということは、非常に心強いな。
「よし、じゃあ―――行くか」
「―――ええ」
俺とヒナはしっかりとお互いの手を合わせる。
ヒナの小さい手は、不思議と頼もしい。
「……せーのッ!」
「――――――ッ!」
俺たちは勢いよく―――深き谷の闇の中へ飛び込んだ。
ヒナの身長は150㎝です




