第150話:黄金の意志①
どれくらいが経ったのだろう。
時間の感覚がない。
身体は随分動くようになったが、部屋からは一歩も出ていない。
出る気が起きなかった。
あれ以来、悪夢は一向にやまない。
日に日に、夢の中のジェミニの声は鮮明に聞こえるようになる。
俺を責め立てるかのように、ジワジワと心を抉ってくる。
目を閉じることすらが恐怖に変わった。
ただひたすらに俺は天井を眺め、思考も放棄していた。
幼き日から見慣れたはずの天井は、やけに遠く感じた。
――彼女が現れたのは、そんな時だった。
ガチャリ、と部屋の扉の開く音と共に、何人かの人の気配を感じる。
現れたのは、3人の少女だった。
赤い髪のヒナに、亜麻色のポニーテールのリュデ。
そしてその2人に続くように…見覚えのある人影が見えた。
「―――隊長…」
「―――っ!」
思わず俺は、目を逸らした。
無造作に流した、金色の髪。
女性にしては高めの背丈に、スラリと引き締まった体躯。
鷹のように鋭い目つき。
―――あぁ…。
その少女のことは、わざと考えないようにしていた。
だって、何を話せばいいかわからなかったから。
なんて顔をして会えばわからなかったから。
「―――シンシア…」
俺は、少女の名前を呼んだ。
● ● ● ●
久しぶりに見た彼女の姿は、少しやつれていただろうか。
相変わらず美人ではあるが、目の下にはクマも見える。
眠れないのか、眠っていないのか。
いずれにせよ、当然と言えば当然な気もする。
俺はゆっくりと体を起こした。
「……」
シンシアは無言でそんな俺を見つめている。
俺は―――シンシアの方向は見ても、目線は合わせなかった。
合わせる勇気がなかった。
この部屋には4人もの人がいるのに、誰もが黙っている。
扉の横で腕を組んでいるヒナも、その隣に控えているリュデも、正面のシンシアも。
皆…俺を見つめている。
俺が何かを話すのを待っているのだろうか。
でも俺は―――何を話せばいいか、わからない。
だって、そうだろう?
彼女は…シルヴァディの娘なんだ。
俺の師匠で、俺のせいで死んでしまった、シルヴァディの娘だ。
ずっと、歪んだ関係だった2人が、最近は仲睦まじく話しているのを、俺は知っている。
親子のあるべき本当の姿になったという事を、俺はよく知っている。
でも、だからこそ、俺は彼女と目を合わせることが出来ない。
だって、それを奪ってしまったのは俺だから。
弱くて、折れてしまった俺が招いてしまった事だ。
俺が……。
重苦しく沈黙に包まれた空間の中で、最初に口を開いたのはシンシアだった。
「…身体の具合はどうですか?」
俺の身を案ずる言葉だった。
少し震える声色だ。
「…ボチボチだよ」
そう答えた。
声が出ると共に、カラカラに喉が渇いていることがわかる。
「そうですか…」
言葉は続かない。
彼女と今までどうやって話していたのかも思い出せない。
彼女の身の上を思うと、気休めの言葉も、慰めの言葉も出てこない。
だって、「残念だったね」とか、「元気出しなよ」とか…そんなこと俺に言う資格はない。
俺に言えるとしたら、それは…
「…ごめん」
かき消えそうな声で、不意にそんな言葉が出てきた。
謝罪の言葉だ。
「…どうして、謝るんですか?」
「…それは…」
言葉に詰まる。
どうして謝るのか、そんなの…
「だって、俺のせいだから…」
まるで、罪状を自供するかのように、俺は途切れ途切れの言葉を紡いだ。
「俺は―――折れてしまったんだ……軍神を相手に、ずっと胸に抱いていた信念が折れてしまった。諦めてしまった。勝てないって…そう…」
そうだ、あのとき…軍神ジェミニを前にして、俺は諦めた。
かつて、エメルド川のあの山林で、心に固く誓った信念が――ポキリと折れてしまった。
「もっと心を強く待てば、もう少しだけでも立ち上がれば…全部を懸ければ…違う未来もあったかもしれない」
でも立ち上がれなかった。
俺がやるべき事なのに、できなかった。
「だから――折れてしまった俺の代わりに命を懸けたのは師匠だった。本当は俺がやるべき事を、師匠が尻拭いをしたんだ」
その結果西軍は勝った。
シルヴァディが俺たちを勝たせてくれた。
「俺のせいだ。俺が師匠を――天剣シルヴァディを死にいざなった」
「…何を…言っているんですか」
シンシアは、目を見開いている。
「俺が…俺がやらなきゃダメだったんだ…俺が命を懸けなきゃいけなかった…あの日死ぬべきだったのは俺なんだよ…!」
それが俺がいる意味だった。
もっとやりようがあったかもしれない。
もっと前からきちんと剣を学べば、もう少し粘れたかもしれない。
もっと魔法の研究を熱心にしていれば、突破口があったのかもしれない。
でも失った物は戻ってこない。
剣と魔法の世界にも、死者を蘇らせる魔法はないのだ。
目の前のシンシアは、先ほどとは少し違い―――瞳になにかの感情が乗っているように思えた。
「――けないで」
そして―――金髪の少女は歯噛みするかのように、
「―――ふざけないで下さい!!」
そう叫んだ。
「―――っ」
真っ直ぐと俺を見据えて、睨むように、彼女は俺を見据えている。
思わず俺はびくりと肩を震わせた。
「…なんですかそれは…。本当は自分が死ぬべきだったって…そんな事本気で思っているんですか?」
「…そうだよ」
目を逸らしながらそう答えると、シンシアはキッと、俺に詰め寄る。
後ろのリュデが慌てて前に出ようとするが、隣のヒナに止められているのが目の端に移った。
「ふざけないで!」
俺の胸元を掴み、慟哭するかのように、シンシアは叫んだ。
「父さんが――天剣シルヴァディが、何のために戦ったのか―――何のために命を懸けたのか、わからないんですか!?」
「…わかってるさ」
そう、それは誰よりもわかっている。
シルヴァディは俺の為に戦ったんだ。
俺を守るために。
だから、俺のせいだって、そう言っているんじゃないか。
「父さんは――ずっと貴方の心配をしていました。アイツの身体はボロボロだからって。アイツはすぐに無茶をするからって」
「…知っているさ」
知っている。
シルヴァディはずっと前から俺の身体を気にかけてくれていた。
全部知っているさ。
「…だったら何で―――父さんの意志を不意にするような事を…言うんですか」
「…仕方がないじゃないか…これ以上何を背負えっていうんだ」
もう、背負いたくないんだ。
俺には無理だ。
シルヴァディの死を背負って生きろなんて…そんなのは無理だ。
すると、
「……表に出てください」
「…?」
シンシアは、そう言って背中に差していた一振りの剣を前に出す。
よく見ると、腰に差している物とは別の剣だ。
どこかで見たことのある鞘だが…。
「これは父の唯一残した遺品――イクリプス。本当は貴方に使って貰おうと思っていた剣です。天剣の後継者として、きっと父さんも喜ぶだろうと…」
「……」
「でも、貴方にこの剣は渡せません。今の貴方に―――父さんの弟子を名乗る資格なんてない」
シンシアは、正面から俺を見据える。
「―――『決闘』です。この剣を賭けて……私と戦いなさい!」
そして、堂々とそう言い放った。
「ちょっと貴方、アルトリウスは―――」
「―――いいんだ、ヒナ」
抗議の声を出したヒナを手で制する。
――決闘。
剣士の世界で、立ち合いではなく、「決闘」というからには、木剣ではなく、真剣を使う。
合意の上の決闘は、斬っては斬られる…命を失う危険さえある勝負だ。
俺は、答えた。
「…受けるよシンシア」
シンシアに斬られよう。
彼女に斬られるならば後悔はないと――そう思った。
● ● ● ●
その家の庭先で、シンシアは1人の少年と向かい合っていた。
距離にして約10歩ほど。
お互い手には抜き身の剣を持っている。
少し離れたところでは、2人の少女がそんな彼らを固唾を呑んで見守っていた。
かつてアルトリウスが言っていた想い人だろうか。
だが、シンシアの視界に、彼女たちは入らない。
見つめるのは眼前の焦げ茶髪の少年だけだ。
「―――合図はいりませんね?」
「…ああ」
シンシアの問いに、少年―――アルトリウスは、そう答えた。
気だるげなその声色に、なおシンシアの感情は揺れ動く。
それは―――一種の怒りのようなものだ。
赤い髪の少女、ヒナに連れられて、シンシアは初めてアルトリウスの家を訪れた。
いったい彼に会って何を話すのか、何を思うのかはわからなかった。
慰めの言葉を期待していたのか、それとも、ただ彼の顔が見たかっただけなのか。
それでも、とにかく会わなければならないと、そう思ったのだ。
道中の父の遺品―――黄金剣はやけに重く感じた。
本当に久しぶりに再会したアルトリウスは、酷く衰弱していた。
それは…別に良かった。
怪我をしたとも聞いたし、弱っているのも、気落ちしているのも当然だ。
シンシアもそうだった。
でも、彼の口から出てきたのは――一種の諦念とも取れる言葉だった。
せっかく父が繋いでくれた命と未来を軽んじる発言に、自信のない言葉の数々。
まるでこの世の全ての不幸は自分のせいだとでもいうような悲愴感。
敗北して、しかもそのせいで師匠が死んだと思い込み、たった1人でそれを背負い込んで、今にも彼も死んでしまいそうだった。
以前の彼からは想像もできないほどの姿だ。
父の死を悲しむのではなく、自分の生を呪うような彼を――そのままにしておくわけにはいけないと思った。
そんなことを思わせるために父は戦ったわけじゃない。
父は、シンシアやアルトリウスに、笑って生きて貰うために戦ったのだ。
だって、父は安らかに微笑んでいた。
まるで一片の悔いもないかのように穏やかな顔で眠っていた。
残していく者たちの未来を守れたと、満足するように。
そんな父の想いを否定されたくなかった。
父の残した剣。
この黄金の剣は、アルトリウスに使ってもらおうと思っていた。
彼ならば父の剣と意志を継ぐのにふさわしいと思った。
だけど、こんなアルトリウスに――生きる気力を無くしたような男に、父の剣は託せない。
だから、シンシアは剣を取った。
怒りのような、憤りのような、そんな感情だ。
言葉で伝わらないならば、剣で伝えるしかない。
2年間、ずっと打ち合ってきた剣だ。
シンシアとアルトリウスにとっては、言葉を交わした数よりもずっと多いかもしれない。
ただ、わかって欲しかった。
言葉では伝えられない、父の想いを。
そして―――シンシア自身の想いも―――。
「―――フッ!」
そんな決意と共に、シンシアは地面を蹴った。
「―――!!」
アルトリウスは少しよろけながら、ステップを踏む。
病み上がりと言えど、体に染み付いているのだろう、彼の動きは間違いなく達人のそれと同じだった。
「―――まだ!」
だが、シンシアは猛攻を加える。
止まらない思いをぶつけるように。
煮え切らない感情を発散させるように剣を振る。
キン、と甲高い音が空気を走り、互いの剣戟は交差する。
――流石ですね。
素直にシンシアはそう思った。
長い間意識を失っていた彼は、おそらくここ2か月、剣など振っていないだろう。
家に籠っていたシンシアとて似たような物だが、寝たきりであったアルトリウスとは、怪我の度合いも、体のなまり具合も段違いだ。
だが、それでもやはり彼は強い。
第四段階という、強さの高み。
同じ第四段階でも、アルトリウスのそれは、クザンのそれよりも上位に感じる。
練達した型。
身体に染みついているような足さばき。
吸いつくような技。
どれもが惚れ惚れする完成度だ。
でも―――。
「―――舐めているんですか…!」
思わずシンシアは呟いた。
確かに――病み上がりとは思えない剣の速さと動き。
シンシアよりは上だろう。
しかし、
―――凄みがまるでありません…!
そう、その剣に―――以前はあった凄みがないのだ。
華麗な剣から、まるで圧が感じられない。
たとえ技の熟練度が浅かろうと、動きの速さが遅かろうと、かつてその凄みのあった2年前の彼のほうがよほど脅威に感じる。
まるで、彼の剣を、彼の剣たらしめていたモノが抜け落ちたような、そんな剣だ。
「そんな…腑抜けた剣で…!」
そんな何とも言えない憤りを乗せるように、シンシアは剣を振る。
シンシアが速くなったのか、アルトリウスが遅くなったのか、その両方か。アルトリウスは動きが読まれているかのようにシンシアに追い詰められていく。
奇しくも、彼らの初めての立会いの時とは真逆だ。
「――ッ!」
「――なんですかそれは!」
感情のままに、剣の赴くままに、シンシアは叫ぶ。
まるで何も乗っていない、アルトリウスの無機質な剣は、取るに足らないものだ。
「こんなもの…貴方の剣じゃないでしょう!」
「なにを…」
アルトリウスの剣を、シンシアの剣が弾く。
「―――アルトリウス・ウイン・バリアシオンは、どんな時でも諦めなかった!」
剣閃の音と、シンシアの高い声が、甲高く空気を響かせる。
「私がどれだけ遠ざけようと、諦めずに近づいてきた! どんな強大な敵にも恐れず立ち向かっていった!」
思い出すのは、かつてカルティアの地で、ずっと先を走っていた少年の姿だ。
自分のほうが前にいたはずなのに、気づけば何段も飛ばして遥か遠くを走っていた少年。
「私があの雨の中、ギャンブランに向かって行く貴方を、どんな気持ちで見ていたかわかりますか!?」
その強さに嫉妬した。
皆が評価する少年の凄さに圧倒された。
誰よりも憧れた。
「貴方は言いました。責任があると! 隊を率いるのにも、戦うことも、強くなることも…背負うって決めたんだと!」
「―――ッ!」
かつてやけに哀しそうな顔をしながら敵陣に切り込んでいく少年の姿は、覚悟を感じさせた。
だが、今の彼は―――アルトリウスからはそんな物何も感じない。
ただ、全てを諦め―――まるで殺してくれとも言わんばかりだ。
「貴方の背負っていたものは、そんなものですか!? 貴方の決意は…この2年は、こんなところで終わるのですか!? たった一度の敗北で、師を亡くした程度で‼」
「――やめてくれ…!」
「――そんなわけがないでしょう! アルトリウス・ウイン・バリアシオンは―――私の隊長が、こんなところで諦めるわけがない! 折れるはずがない!」
きっとリュデもヒナも言いたかったことだ。
だが、彼女たちでは、アルトリウスの気持ちに寄り添うことはできなかった。
でも、シンシアは――シンシアだけはアルトリウスに声を上げる事ができる。
唯一同じ哀しみをかかえる存在として。
「―――やめろ…もう俺は…」
「そんな貴方だから!」
アルトリウスの声と剣を、同じくシンシアの声と剣が弾き飛ばす。
「――そんな貴方だから、私は―――貴方の事を好きになったのに!!」
「―――ッ!」
シンシアの剣はアルトリウスの喉元に突き付けられていた。
「なのに、勝手に無茶して…勝手に折れて…1人で勝手に死のうとして…」
シンシアは泣いていた。
大粒の涙が、シンシアの頬を流れていた。
「そんなの…私も父さんも許しません…っ」
「シンシア…」
カラン、と音を立てて、シンシアの剣は地面に落ちた。
消え行くような声と共に、少女の身体は、その場にヘタリと崩れていった。
「…ごめん…ごめんな」
少年は、そう呟きながら、少女の傍に寄った。
きっとその謝罪の言葉は、先ほどとは違う意味だろう。
そっと少女の肩を抱く少年の目尻からは、少女と同じく大粒の涙が零れていた。
「…リュデ、行くわよ」
「…そうですね」
少し離れた位置で彼らを見ていた2人は、いつのまにか消えていた。
バリアシオン邸の庭には、ただ2人、金髪の少女と焦げ茶髪の少年が、肩を寄せ合い涙を流す姿だけが残った。
相当難産でした。
ちょっと流れが強引な気もしますので、微細な手直しはするかもしれません。




