第149話:残された者
「そうか…目は覚めても、それではあまりにもいたたまれないね」
「…そうね」
元老院の一室。
アウローラ属州総督に任命されたオスカーがその事前準備のために使っている執務室に3人の人影があった。
机に付く銀髪眼鏡の少年オスカーと、その傍の茶髪長身の少女、ミランダ。
そして対面で立つ赤毛の少女ヒナだ。
ヒナがもたらしたのは、「アルトリウスが目覚めた」という情報だが、しかし、3人の顔色はいずれも優れない。
それもそのはず、アルトリウスは目覚めこそしたものの、精神的に随分弱っているのだ。
いくら語りかけても、一言二言しか返さず、食事も取らなければ水も飲まない。
かといって睡眠もとっていない。
深夜にうめき声が聞こえると、リュデが言っていた。
ヒナが話しかけても、どこか心がここにないという感じで、朧げな返事をする。
アルトリウス自身が、まるで生きる気力を無くしてしまったような、そんな状態なのだ。
思えば――昔から親しい人に対しては敏感な少年だった。
かつて、ヒナが原因でエトナと喧嘩をしていた時期のアルトリウスは、顔色も体調もやけに悪そうだった。
それが今回は喧嘩どころではない。
ここ数年のアルトリウスにとっては最も大きな存在であったであろう師匠の死…。
もう二度と会えないのだ。
きっと、師匠を信頼していたからこそ、その衝撃も大きいのだろう。
ヒナはシルヴァディと面識はないが、彼との師弟関係については色々な方面から聞いている。
非常に信頼で結ばれた師弟であったとか。
とにかく、少しでも打つ手がないかと思い、ヒナはオスカーの元を訪れたのだった。
オスカーもヒナの話を聞いて難しそうな顔をする。
「僕も顔を出したいところだが…」
「無理する必要はないわ。貴方も暇じゃないでしょう?」
「まあ、ね」
現在、ラーゼンの元で働く人材は不足している。
門閥派を軒並み排除したから当然とも言えるが、政務に携わる人間が圧倒的に足りないのだ。
首都に帰還したオスカーに回ってくる仕事の量は膨大であり、さらにはこの度アウローラ属州総督に任命されたということで、その事前準備にも追われている。
初日以来、アルトリウスの元へは行けていない。
「まあ、もっとも…時間があっても来ない方がいいかもしれないわ。多分会っても…ショックを受けるだけよ」
「そうかもしれないな…」
ヒナの言葉にオスカーも頷く。
「…君は…大丈夫かい?」
「何がよ?」
「バリアシオン君の事もだが…ほら、君も身内を亡くしているからさ」
「…別に…もう祖父とは縁を切ってるから」
身内、というのは、間違いなくヒナの祖父ネグレドのことだろう。
ヒナとしては、カレン一門もミロティック家もすでに捨てたものだ。それほど深く考えているわけではない。
祖父に関してはむしろ自業自得だと思っている。
伝統を守ることに固執するあまり、現実が見えなくなってしまった――家に縛られてしまった者の末路だ。
なのでどう答えたものかと迷ったものだが、
「…そうか。まあ、安心しくれ、君自身がカレン氏を既に除名されていることはわかっているし、既に聞いている通り、バリアシオン君の手前、父によって君の権利と自由は保証されている」
オスカーは苦笑する。
確かに、少し前に総司令官ラーゼンより直々に、権利を保障すると伝達された。
内戦が始まる前に、アルトリウスがラーゼンにヒナの身の安全の保証を求めたらしい。
「まさか君とバリアシオン君がそんなに親密な仲だったなんてね、知らなかったよ」
ヒナとアルトリウスの仲を、オスカーは知らなかったようだ。
「…全く、アルトリウスも心配性ね」
「全くだ、むしろ今はこちらが心配する立場になってしまったが」
「…そうね」
確かに、今のアルトリウスの現状は色々と傷ましすぎる。
流石のヒナでも心配と不安は隠しきれない。
「そうだ、君に頼むのも変な気がするが――伝言を頼まれてくれないか?」
「伝言?」
「ああ、シンシアという人にバリアシオン君が目覚めたということを伝えてきて欲しいんだ。ひょっとすると何かのきっかけになるかもしれない」
「…その、シンシアっていうのは?」
「…この2年、彼の側に誰よりも近くにいた人で…」
そこでオスカーは言葉を区切り、少し遠い目をする。
「――そして、天剣シルヴァディの娘だよ」
● ● ● ●
元老院や学校、官庁街が立ち並ぶような――いわゆる都心からは少し離れた場所に、エルドランド邸――シンシアと、その父シルヴァディの暮らしていた家があった。
邸とは言っても一般庶民の家とさして変わらない。
シルヴァディはその辺の貴族などよりはよほど金持ちではあったが、妻ソルシア―――つまりはシンシアの母と共にコツコツと働いたお金で建てたこの家から引っ越したりはしなかったのだ。
シンシアが育ったのもこの家で、戦争が終わって帰るべき場所はこの家となる。
以前、カルティアから1ヶ月ほど滞在した時は、初日に一度だけ様子を見にきたくらいで、あとは駐屯地で過ごした。
なにせ、家には何もない。
父は上司ラーゼンとすぐに会えるよう、遠い家には寄らなかったし、シンシアとしても、父や師匠であるゼノン、隊の皆と共にいれる駐屯地の方が落ち着いたからだ。
だが、戦争は終わり、もう駐屯地はない。
シンシアに帰るべき場所はこの家しかなかった。
誰もいない家で、金髪の少女シンシアは、ただ1人床にへたりと座り―――記憶をめぐらせていた。
あの日―――。
要塞イルムガンツ攻防戦。
激戦だった。
必死に指揮をして、クザンを倒し、シンシアは西軍を勝利に導く立役者となった。
それなのに、待っていたのは衝撃的な出来事だった。
父シルヴァディの死――。
強さという意味では世界中の誰よりも信頼していた父がは負けて――そして死んだという事実は、シンシアを深い悲しみの底へ落とした。
ようやく、少しだけ話せるようになった父。
嫌いになるくらい強くて、でもやっぱり嫌いにはなれなかった父。
楽しそうに少年のことを話す父。
きっとこれから、今まで過ごせなかった親子としての時間をゆっくり取り戻していくんだと、そう思っていた矢先だった。
最後の最後。
ずっと戦い続けて、これで終わりだというのに。
父は―――シルヴァディは死んだ。
父を殺したのは、軍神ジェミニというらしい。
シンシアでも聞いたことがある。
世界最強。
数多の伝説を持つ、強さの頂点だ。
実在するなんて思わなかった。
憎しみはあまり出てこなかった。
父がやけに穏やかな顔で眠っていたからだろうか。
ひたすらに感じたのは悲しみと、寂しさ。
そして、後悔。
こんなことなら、もっと早く素直になればよかったという後悔。
意地なんて貼らずに、愛してくれていることを受け入れればよかった、と。
でもいくら後悔しても、死人は帰ってこない。
きっと父は、満足して逝ってしまった。
安らかに眠るその顔が、そんな風に思えた。
だから涙が枯れるまで泣いて、叫び尽くして…。
悲しみながらも父の死を受け入れようと思った。
戦争をしているのだ。
人が死ぬのは当たり前だ。
だからせめて、きっと自分と同じ気持ちだろう父の弟子の少年――アルトリウスと少しでも悲しみを分かち合って、それで前に進もうと思った。
でも、
「…隊長は意識不明の重体のようです」
「…え?」
父の遺体の隣でそんな報告を聞いた。
『―――アルトリウスのことを、頼んでもいいか?』
いつか戦いの前に、父が言っていた言葉を、今更ながら思い出す。
アルトリウスは1人、強大な敵に立ち向かい、ボロボロだった。
わかっていたはずなのに、シンシアはそばにいる事が出来なかった。
「………」
父は死に、シンシアが唯一悲しみを共有できると思った父の弟子アルトリウスは、何度も激しい戦闘を経て重傷。
いつ目覚めるかもわからない昏睡状態。
悲嘆。
自責。
混乱。
さまざまな感情が駆け巡り、そしてシンシアの心は折れた。
感情のやり場がわからなくなったのだ。
アウローラで、多くの他の遺体と共に炎にくべられていく父の姿を、無表情で見つめた。
遺灰の入った壺は、やけに重く感じた。
「…一度、家に帰って…落ち着くまで気持ちの整理をつけた方がいいだろう」
師匠であるゼノンはそう言った。
彼自身は、戦力として、残存的勢力の掃討をしなければならない。
ついてこいとは言われなかった。
もしも言われても…力にはなれなかったと思う。
ゼノンが言うがままに、シンシアは首都に戻ってきた。
久しぶりに来た自分の家は、以前見た時とほとんど変わっていない。
すこし埃が溜まっていたが、それくらい。
やることもなく、やる気も起きず、ただ、部屋でボーッとしていた。
家具も必要最低限で、殺風景な部屋だ。
それはそうだ。
シルヴァディにとってもシンシアにとっても、家といえば駐屯地の天幕の方が馴染みが深い。
シンシアにとっての家の記憶といえば1人で過ごした記憶と、あとは育児係のハンナの記憶くらいだ。
父の記憶は、ほんの少し。
遅く帰ってきては、シンシアを見て、すこし寂しそうな顔をする父の顔だけは覚えている。
親子としての思い出は欠片もない家だ。
本当ならこれからいくらでも思い出を紡いでいけるはずだった家。
でも、もうそれもない。
本当に――何もない家だ。
あるのは、手元に残った黄金の剣くらい。
唯一と言ってもいい、父の形見。
父が残したもの自体は、天剣の蔵だったり、それなりの金もあるが、でも実際の父の所持品としてはこの黄金剣イクリプスだけだ。
――隊長に…使ってもらおうと思っていたんですけどね。
部屋の片隅で、黄金の剣を眺めながら、シンシアは思う。
シンシアが使っているのはもう少し細身の剣だ。
若干サイズが合わないし――なんとなく父も、誰かに使われるなら彼に使って欲しいだろうな、と思った。
遺書も何もないから、確かなことはわからないけど、彼のことを話すときの父は、とても楽しそうで、誇らしげだった。
―――でも。
アルトリウスは――。
彼女の隊長は眠りこけたままだ。
シンシアはこの世でただ1人残されてしまった。
シンシアに残ったのは、大した思い出のない殺風景な家と、父が持っていると輝いて見えたのに、不思議と今はくすんで見える黄金の剣だけだった。
―――リーンゴーン
不意に――そんなシンシアの家の呼び鈴が鳴ったのが聞こえた。
「――――来客?」
長い間空き家同然だったこの家に、今更訪問者なんているのだろうか。
不思議に思いながら、シンシアは体を起こし、玄関へと向かった。
すると―――。
「…こんにちは」
現れたのは―――1人の少女だった。
赤毛に、猫目。
額にある髪留めと瞳の色は、調和するかのように紅く煌めいている。
小柄で、おそらくシンシアよりは年下であるような気がしたが、その雰囲気は、年下どころか、大人っぽさを感じるものだ。
赤いローブは、それなりに使い込まれており、不思議と神々しさを感じる佇まいを演出していた。
凛々しい顔つきや表情は、面識はないはずなのに、どこかで見たことのあるような気がする。
「―――あなたが…シンシア・エルドランドさんでいいかしら?」
少女が口を開く。
思わず聞き入ってしまうような、透き通るような声だ。
「…そうですけど…」
「そう」
相槌を打ちながら瞬きをする彼女の姿は、やけに綺麗に思えた。
「私はヒナ。あなたに伝言を頼まれたのよ」
「…伝言、ですか」
伝言、と聞いてもピンとは来なかった。
ひたすらに、突如現れた少女に圧倒されたとでもいいのか。
彼女の存在感はシンシアにとってはそれほど眩しかったのだ。
でも、現実でないものを見ていたかのようなシンシアも、次の少女の一言で現実に引き戻される。
「――アルトリウスが…目を覚ましたわ」
「―――隊長が…!?」
「…ええ、会う気があるなら―――案内するけど」
隊長が目覚めた。
父の弟子が……。
「…行きます」
父の死から、止まっていたシンシアの歩みが、再び動き出した――。




