第147話:眠る少年
リュデ視点です。
私の1日は、本に囲まれた部屋から始まります。
長らく使い込まれた2段ベッドの下の段が、私の寝床です。
もっとも、上の段を使う姉は、今は首都にはいません。
普段はすまし顔な癖に、お気に入りの枕がないと眠れない人でしたから、王国でちゃんと眠れているのかが心配です。
私もお母さんも首都に残ってしまったものだから、アラン様やアイファ様のお世話が大変でしょう。その点は少し申し訳なく感じます。
さて、目が覚めて、身なりを整えたら、まず一番に隣の部屋へ向かいます。
ノックをしても返事はない部屋の扉をくぐると、私の部屋よりも本で埋め尽くされた部屋が目に飛び込んできます。
「…アル様、おはようございます」
その部屋の主――ベッドの上で、昨日と変わらず眠るアル様のそばに寄り、そう挨拶をします。
昨日と同じく、返事が返ってくることはありませんが、アル様が薄く呼吸をしていることを確かめて、私は部屋を後にします。
「――あらおはようリュデ」
「おはようございます、お母さん」
お母さん――チータはいつも私より早く起きています。
食事の下準備に、洗濯、朝からやる事があるのです。
「坊ちゃまは?」
「…眠っています」
「そう」
何とも言えない顔でそんな報告をするのが、最近の朝の恒例です。
「――後で体を清めて差し上げなさいね。それから、服の替えも…」
「はい」
そんなことを話しながら、朝食を取ります。
野菜の付け合わせに、パンとコーンスープ。
食卓には、いつアル様が目覚めてもいいように、3人分の食事が並べられます。
「あんなに長く眠ってしまって…起きたらきっとお腹を空かせているでしょうからね」
毎日食事を並べながら、お母さんはそう言います。
食事の用意は、もちろん私がしてもいいのですが、私はアル様のお世話に集中するようにとのことで、お母さんが頑として手伝わせてくれません。
アル様――私の敬愛するアルトリウス様が戦争から帰ってきたのは、今から1か月ほど前のことです。
戦争には勝ちましたが、酷い怪我をしたということで、元老院の近くの大きい治癒院で治療を受けるため、他の兵士の方々よりも早く帰ってきたのです。
1週間ほどは、その治癒院で集中的に治療を受けていました。
「…身体の傷は―――治療した。だが、魔力核の治癒なんてできないからね。あとは…彼の自然回復能力次第だよ」
酷く疲れた顔をしながら、ヤヌスで一番の治癒師だという方が教えてくれました。
これ以上は治癒魔法でも、医薬品でもできることはないようです。
以後は、本人が落ち着ける場所の方がいいだろうと言われ、今は家――バリアシオン家のお屋敷で療養しています。
朝食を終えた後は、アル様の着替えと、水を張った桶を持ってアル様の部屋に行きます。
「…アル様、失礼しますね」
先ほどと一寸たりとも変わらない姿勢で眠るアル様の服を脱がせ、濡らした布で身体を丁寧に拭いていきます。
本当は恥ずかしいし、きっとアル様も起きていたら恥ずかしがるのでしょうけど、かといってアル様の体の汚れをそのままになんてしておけません。
あどけない顔で眠るアル様の体は、年齢に見合わぬほど鍛えられていて、程よい筋肉がついています。
きっと絶え間のない努力の賜物なのでしょう。
アル様が幼少のころから毎日体の鍛錬を欠かさなかったことは知っています。
そんなアル様の身体には、あちこちに傷の跡がありました。
何年も前についたようなものから、最近ついたようなものまで。
軽い引っ掻き傷のようなものから、痛々しく斬られたような傷まで。
アル様が命を懸けて戦っていたんだな、ということがよくわかります。
昼間になると、お客様がいらっしゃいます。
最近ですと、忙しいでしょうに、アウローラから帰還したばかりのオスカー様がいらっしゃいました。
「――バリアシオン君…君は…」
オスカー様は、アル様の傍らに座り、長いこと無言でアル様の顔を見つめていました。
お供の背の高い女性も無言でしたが、どこか悲痛な顔をしていました。
その少し後には、黒い髪のやけに長身で、目の細い男性の方がいらっしゃいました。
アル様の上司の方のようです。
「…シンシアもアルトリウスもこれでは…アイツも浮かばれんな…」
その方も終始無言でしたが、最後にそう言って去っていきました。
他にも、日替わりでアル様が指揮していたという隊の隊員の方が見舞いにやってきます。
隊員の方々は、口々にアル様との思い出話をしてくれました。
厳しくも、合理的な訓練の話。
やけに行軍の速度に厳しかったり、たとえ勝てても、連携ができていないときは叱られたり。
ゲリラ戦の訓練では、たかが13歳の少年に100人のエリート隊が半壊させられた、なんて微笑みながら話してくれました。
訓練の合間では進んで隊員と食事を共にしたり、死にそうになった経験を笑って語り聞かせてくれたり、時には相談に乗ってくれたり、隊では一番の年下なのに、まるで全員の父親のようだった、と肩を竦めながら教えてくれました。
軍の方以外ですと、毎日のように顔を出す人が1人いらっしゃいます。
今日も、昼頃に、その人が顔を見せに来ました。
「―――調子はどう?」
「――あ、ヒナ様」
赤毛のミディアムショートに、少し挑戦的な猫目。
小柄なのに、やけに大人っぽく感じるのは、その凛々しさと神々しさからでしょうか。
ヒナ・カレン・ミロティック――ヒナ様です。
今はもうカレン一門もミロティック家も名乗っていないとか。
でも、4年ぶりに再会したヒナ様は、変わっているようであまり変わっていませんでした。
アル様と並んで歩くため、何年も魔法の修業を重ねて、戦場では実際にアル様のピンチを救ったそうです。
確かにとても成長はされたのでしょうが、やっていることは昔とそんなに変わりません。
ただの恋する乙女です。
「―――眠っているわね」
ヒナ様は毎日顔を出してはそんな感想を言います。
「呼吸もしていて、心臓も動いているのに、目覚めないなんて…不思議ですね」
そう言うと、ヒナ様は真面目な顔で答えてくれます。
「表面的に現れない部分を、必死に治している最中なのよ」
「魔力核、ですか」
「ええ」
アウローラにて、魔力が暴走し、死にかけていたアル様を間一髪のところで治療したのはヒナ様です。
アル様の暴走した魔力に介入し、無理やり制御をして元の流れに戻した、と聞きました。
私には詳しいことはわかりませんが、治癒師の方は、そんなことできる人間がいるなんて、と驚愕していました。
「でも、私もそれで魔力切れになったし…まだまだよ」
いったいどれほどの高みを目指しているのか知りませんが、ヒナ様はそう言って謙遜します。
そんな調子で、今日もいつもするようなアル様の変わらぬ容態の話と、ヒナ様の色々な話を一通り聞いたころ、不意にヒナ様が言いました。
「――それにしても、この部屋は変わらないわね。本に囲まれた、狭い部屋」
ヒナ様は最初に部屋に入った時は、彼らしい部屋、などと比喩したこの部屋は、確かに何年も前から変わっていません。
掃除だけは欠かしていませんが、家具は昔のままです。
変わっていない部屋です。
「はい、ヒナ様と一緒ですね」
「…それ、どういう意味よ」
何かまずいことを言ってしまったのでしょうか。
ヒナ様の顔が険しくなります。
心なしか胸元を睨んでいる気がしますが。
「えーと、昔と変わらず、アル様にゾッコンですね!」
「ゾッ――別にそんなこと――ないとは言わないけど…それはお互い様でしょ!」
「へ!?」
私がアル様にぞっこん…。
隠しているつもりもありませんが、ヒナ様に言われるとなんだか変な感じです。
「わ、私はその――従者として全てを捧げているだけですから!」
「ふーん、全ユピテル恋愛指南書でも読んだ方がいいんじゃないかしら」
「もう、ヒナ様、からかわないでください!」
「ふふ、昔のお返しよ」
ヒナ様も4年経って、いつかのツンが懐かしくなるほどのデレっぷりです。
そして少し私には意地悪くなりました。
全くもう、別に指南書なんてなくても、私の気持ちなんてわかり切っているのに。
「…全く、こんなに良い子を長い間待たせて寝たきりなんて、アルトリウスも罪な男ね」
頬を膨らませる私を尻目に、ヒナ様は目線をアル様に向けます。
ルビーのように綺麗な瞳です。
「仕方ありませんよ…すごく――頑張ったんでしょう?」
その傷を見ても、見舞いに来る人の話を聞いても―――アル様が死に物狂いで頑張ったということはよくわかります。
少しくらい寝ていても、文句はありません。
すると、ため息を吐くかのように、ヒナ様は言います。
「知ってる? アルトリウスの怪我、敵からの攻撃よりも、自分の動きの反動の方が重傷だったって」
「はい、治癒師の方が教えてくれました」
「あまりの動きの速さに、筋線維は摩耗して、細胞は崩壊、血管もいくつか切れて、内部出血は多数。
…普通、人間っていうのは、そうならないように本能で制限をかけているものだけど、まるでそれを取っ払ったような結果ね」
「それほどの強敵だったということでしょうか」
「『摩天楼』に『魔断剣』、そして――極めつけは『軍神』ジェミニね」
「『軍神』ジェミニ…」
どの名前も、知らぬ名前ではありません。
中でも軍神ジェミニは――私やヒナ様にとっては馴染み深い名前でしょう。
なにせ、かつて私とヒナ様を引き合わせたのは『軍神ジェミニの英雄譚』という本なのですから。
暗記するほど何度も読みなおした、私の中でもお気に入りの本です。
アル様が歴史に名だたる人たちと剣を交えたという事実は、当たり前のような、でも雲の上の話のような、そんな気がしました。
「目覚めて、くれますよね」
ここでこのままアル様が目覚めず、それこそ本の歴史の一部になってしまうなんていう悪い想像が、ここのところ私の頭を過ります。
「…大丈夫よ、アルトリウスだもの」
ヒナ様は、綺麗な瞳を少し震わせながら、唇を噛んでそう言います。
「…そうですね」
でも、言いながら、私は思います。
たとえ目覚めたとしても、アル様は大丈夫なのでしょうか。
体はもちろん、その心が―――心配なのです。
西軍は戦争に勝ちましたが―――それでも多くの命を失いました。
戦争にはつきものの戦死ですが…今回は、その中に天剣シルヴァディ様がいらっしゃいます。
隊の方から聞きました。
天剣シルヴァディ様は、アル様が師匠と仰ぐ―――尊敬してやまない大切な人だったと。
アル様はとても人が好きな方です。
家族や友人を何よりも大切にしている人です。
そんな大切な人の1人、師と仰ぐ人の死を、アル様がどう感じるのか―――。
…私の心配が杞憂で終わればいいのですが。
そんなことを考えながら、アル様のお顔を見ていると―――不意に、そのアル様の身体が、モゾモゾっと動きました。
「――アルトリウス!?」
「――アル様!?」
私もヒナ様も、それまで話していたことも忘れ、慌てて身を乗り出します。
だって、この1か月、アル様はピクリとも動かなかったのです。
それが動いたということは…。
「……ん…」
そんな、掠れた呻き声と共に、アル様の目が開きました。




