第163話 俺、動けない
俺は今、親父が運転する車の後部座席に座っている。助手席にはお袋。俺の隣には妹の絵梨花。お袋と妹が親父に向かって笑いながら何かを語りかけている。声は聞こえない。何故聞こえないのは知っている。これは夢だからだ。いや、俺の神経ニューロンから脳に伝えられる残滓だ。これから親父とお袋は、中央分離帯を乗り上げたワンボックスカーにぶっ潰される。俺は、この悪夢をもう飽きるほど見ている。声を出そうとするが口が動かない。シートベルトは……だめだ。手が鉛の様に重い。目線を右に動かすと、ニコニコした絵梨花が俺に向かって歯を見せながら笑っている。
目線を前に戻すと真っ白な車のフロントがゆっくりとひしゃげ、ガラスが割れ、親父とお袋がぐしゃぐしゃになっていくのがわかる。人がただの肉塊へと変わっていく。ふざけんなよ。何度目だよ。もう飽きたんだよ。俺に何ができたってんだよ。妹だけは何としても助けよう。夢であることはわかっているが、躰が無意識に動く。
俺は妹の服を思いっきり下方向へ引っ張ろうと力を込めた瞬間、周りの時間が極端に遅くなり、周りの景色が血のように赤く染まる。冷たく濡れた絵梨花の手が俺に触れた。
「何だ!? いつも見てる悪夢じゃ……口が動く」
「人の子よ。訊け。我が名を」
「絵梨花!? お前……」
「あの女に呼び出され、今貴様の回廊へと至った。我が名は――」
絵梨花の姿をした何かが名を告げようとした瞬間、フルートの乱暴な音色が頭に響き渡り、俺は反射的に目を閉じ耳を塞ぐ。
「口惜しい、どうやら時間切れの様だ。しかしなるほど。確かに面白い律をしている。他の誰とも異なる律とはな。我の形骸されし器を授けようと思ったのだが……。暫く因子を持つ女に入り、この次元を知るのも一興か。数刻の後……また相見えようぞ。人の子よ」
「お前は一体――」
時が動きをだし、車が轟音を立てながら大きく揺れだした所で、俺は目が覚め上体を起こした。
「ったく……最悪な夢見たな」
躰は汗だく。正直内容はよく覚えてないが、最悪の気分だ。俺の隣では、エスカが頭から布団を被って寝ている様だ。俺のベッドの床ではケルベロスが丸まっている。一瞬白いクッションかと思ったぞ。今何時なんだろうか? 皆寝ている所から恐らく夜なのだろう。タバコでも吸おうか。
ケルベロスの名前は付けた方が良いのか? 俺はそのままでいいと思ってる。カッコいいし。でも、ケルベロスは個体名だしなぁ。まぁ皆起きてからでいいか。
そんな事を考えていたら足元に何かが動いた。
「大……丈夫?」
声がしたためベッドの掛け布団の中を覗くと、何故かエルが俺のボクサーパンツに手を掛けた状態でこっちを見ていた。
「凄い……汗出てた。うなされ……てた」
えぇ……。何やってるの子。俺まだ夢ん中なの?
「ど、どうして俺の布団に入ってるの?」
「夜這い……しようと思って」
ちょっと待って。これどうしたら良いの? どうすれば良いの?
「あのさぁ、その〜やめません?」
「なんで? 私の事嫌い?」
「いやいや、君の事は好きだよ」
「なら問題ない」
俺のパンツを刷り下げようと、彼女はゴムに掛けた手を下げようとしてくる。
「君に問題なくてもこっちにはあるっていうか!」
「ゲイン、うるさい。皆起きちゃう」
「ごめんごめん、ごめんね」
「仕方ない……」
お? 諦めてくれたのか?
仮に諦めてくれなくても、最悪スキを見てスリープを掛ければ何とかなるか。
そんな事を思っていると、小さな黒い球体が俺の両肩と両足に出現し、俺はベッドに躰が押し付けられる。
ウソ嘘!? えっ何これ小さなグラヴィティ・スタンプ!? この魔法ってこんな事できたの!?
彼女の顔を見るとにへら顔で笑いながら、俺の方を見ている。
「皆にナイショで魔法の練習……してた。成……功」
肩を小さく震わせながら、引き笑いをしている。
うわ〜この子笑い方下手だな〜じゃない! ヤバい。すこぶるこの状況はよろしくない。俺は今裸だ。つまり魔法耐性ほぼ皆無。このままでは色んな意味で危うい! なんとかこの子をスリープで眠らせなければ!
「エルメンテさん、良い子だからこの魔法解いて欲しいな〜」
「スリープで……私を眠らせれば良……いと思った?」
「!?」
「前はゲインの色……ビカビカしててわからなかった。でも、今はなんとなく……わかる様になった。それに……ゲインは、私のチョコ食べた」
チョコ? この状況と何の因果関係あんの? 独自のリズム持ってる子だからマジでわからない。つーか、もうナチュラルに俺の心読んでんじゃん。こっわこの子。
「チョコは……命より……重い」
シュガージャンキーにも限度があるって!
「チョコ、1個残ってるから返そうか? ほら、片手でいいから魔法解いてよ」
目がむちゃくちゃ泳ぎだした。
「う、う〜……う〜い……い、いらない」
すげぇ葛藤してる。彼女の中の俺ってチョコよりも上なのか。喜んで良いのかな?
「バカにしないで……。私、ゲインの弱点知ってる」
「弱点? 俺に弱点なんかねぇよ。無敵だぞ俺は」
「ゲインは……“押し“に弱い」
「……」
弱点ってそういう。
「ま、まぁとにかくもう寝なさいよ。いい子だから」
隙を見て手をあの子の方に向けて無詠唱でスリープを掛ければ俺の勝ちだ。
「駄目動いちゃ!」
両手足にかかった重力が更に強くなる。
「シーッ! エスカ起きちゃうから! こんな所見られたら色々とヤバいから!」
「エスカなら起きてる……よ」
えっ? まさか……。
頭からすっぽり掛け布団をかぶっている為、彼女の顔を伺い知る事ができない。
俺は渾身の力を込めて、恐る恐る掛け布団をつまみ上げた。
徐々に顕になる彼女の寝顔。彼女の開かれた紫色の瞳に俺が写っていた。
「どの辺りから……」
「夜這いの辺りからずっと聞いていました」
最初からー。ハイ、終わったー。終わりました。俺の円滑かつ楽しい異世界転生ライフが音を立てて崩れていきます。
さようならまったり異世界。こんにちはギスギス異世界。
気付くといつの間にかエスカが立ち上がり、そばにいるエルの両肩に手をやっていた。
ヤバいヤバいヤバい本気でヤバい。今すぐこの事態をどうにかしなければ。これだから、男女問題は嫌なんだよ!
「えーとえーっと喧嘩は辞めよう! ね、ここまで一緒にやってきた仲じゃないか!」
「エル、貴様……」
どうしてこうなった。
「素晴らしい!」
「はぇ?」
「フフフ、そうか。お前もお兄様の事が好きなのだな? 私はな、予てよりお兄様は全世界の女性と子供を成すべきだと思っていたのだ」
「おお」
何言ってんのこの子!? そんな突拍子もない事ずっと考えてたの!? エルも『おお』じゃねぇよ。否定しようよ。
「と、とにかく仲良くなってくれてよかったよ……。うん」
「お兄様! エルと私とお兄様の3人で家族になりましょう! なるべきです!」
家族になるのは別にいいとお兄ちゃんは思いますよ? いや、それよりも問題があるんですけどね。
「おお、そう……いえば、エスカ伝えたい事があった」
「私に?」
「耳貸して」
エスカが屈むと彼女がエスカの耳元で何やら伝えている。
「何? そんな事が可能なのか? ただの脂肪の塊だぞ」
「これは……エスカにしかできない……。超絶技巧」
「こんな何の約にも立たない物で、お兄様を喜んで頂けるなんて。エルお前は天才だ!」
「伊達に……魔術師やってない。それに私には姉が2人いるけど、片方の姉は……たぶんエスカよりもおっぱい大きい」
これに関しては魔術師微塵も関係ないと思う!
「なんと、きっとお前の姉も私と同じ悩みを持っているのだろう」
「――いや、それ程気にしてない」
「それはすごいな……。では、やってみよう」
なんかよくわからんけど、仲悪くなるどころか良くなったぽくて良かった!
「しかし……い、良いのか本当に? お兄様の迷惑にならないだろうか?」
「大丈夫、ゲインは絶対動かない」
怖いよ〜この子〜。正真正銘の魔女だよ〜。動かないんじゃなくて、君の魔法で動けないんだよ〜?
「では、お兄様失礼します」
天国の親父、お袋、絵梨花元気ですか? 俺は異世界で色々と大変ですけど、貴重な経験を積み続けています。




