第23話:第三の証明:結果
院長の怒号が、第三病棟の空気を震わせる。だが、リンネの表情は、一片たりとも揺らぐことはなかった。彼女は、狂信に満ちたその場の空気を再び切り裂くように、静かに告げた。
「そして、これが決定的証拠ですわ」
リンネは、鞄の中から、生きた甲虫の入った小さなガラス瓶を取り出した。瓶の中で、ありふれたクワガタ科の甲虫が、元気に足を動かしている。
彼女はまず、持参したもう一つの空の瓶に、先ほどと同じように『静寂の月桂葉』の煙を満たし、甲虫をその中へ移した。甲虫に、何の変化もない。
次に、リンネは壁の染みを少量削り取ると、その粉末だけを甲虫のいる瓶に入れた。やはり、甲虫は元気に動き回るだけだった。
その様子を見て、院長の後ろにいた職員たちの間から、「やはり何も起きないではないか」「院長様を陥れるための、ただの芝居だ」というざわめきが広がり始めた。院長の顔にも、自らの正しさを確信したかのような、硬い笑みが浮かぶ。
だが、リンネは、そのざわめきにも、院長の表情にも、一切関心を払わなかった。
彼女は、壁の粉末が入った瓶を手に取ると、その中に、薬草の煙をゆっくりと吹きかけた。
ざわめきが、死んだように静まり返る。
誰もが、息を呑んで、ガラス瓶の中で起きる変化を見つめていた。
瓶の底に降り立った甲虫は、一瞬、戸惑うように触角を震わせ、やがて、ガラスの内壁を頼りなくも力強く登り始めた。その小さな脚が、懸命に生を掴もうとするかのように、ガラスを掻く、微かな音が響く。
その動きが、不意に、ぎこちない痙攣に変わった。
数秒間、自らの意思とは無関係に、まるで目に見えない糸に引かれるかのように、その小さな体は激しく裏返り、脚を空々しく掻きむしった。
そして、ぷつり、と。
まるで糸が切れた操り人形のように、全ての動きが、完全に停止した。
逆さまになったまま硬直した、艶のある黒い骸。ほんの数秒前までそこにあったはずの、小さな生命の気配は、跡形もなく消え失せていた。
リンネは、その瓶を、院長の目の前に、静かに差し出した。
「あなた方が起こした奇跡の正体は、これです」
彼女の声は、静かだが、その場にいる全ての者の鼓膜に、そして心臓に、重く突き刺さった。
「この部屋全体が、あなた方の手で、あなた方の善意と、そして、無知によって、巨大な毒物生成室に変えられていたのです」
院長の視線が、リンネの持つ瓶の中の、動かぬ骸に釘付けになる。
彼の、あの揺るぎなく、憐れみさえ浮かべていた顔から、急速に血の気が引いていく。その瞳は、目の前で起きた悍ましい死を捉えながら、しかし、その事実を脳が受け入れることを拒絶するかのように、焦点が合わず、微かに揺れていた。彼の唇が、何か祈りの言葉を紡ごうとして、しかし音になることなく、かすかに震える。
それは、彼の信仰が、彼の世界が、彼の全てが、内側から崩壊していく、静かな兆候だった。
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