第18話:実験室の真実
拠点に戻った部屋の空気は、逃走の熱が冷めやらぬまま、乾いた緊張に満ちていた。アレクシスが扉の外に意識を張り巡らせる中、リンネはランプの光を寄せ、持ち帰った帳簿の羊皮紙を一枚一枚、静かにめくっていく。インクと古紙の匂いが、王宮の一室には不釣り合いな、事件の気配を漂わせる。
院長の几帳面な筆跡が連なる中、リンネの指が、ある記述の上でぴたりと止まった。通常の薬草のリストとは別に、特筆するように記された一行。
「――『静寂の月桂葉』、特殊製法にて」
「…これですわ」
彼女の思考は、すでに結論へと達していた。だが、リンネはすぐに行動に移す前に、アレクシスに向き直った。
「騎士殿、お願いがあります」
「何だ」
「わたくしが捕まる前に第三病棟の窓辺で見つけたのと同じ甲虫を、急ぎ一匹、生きたまま捕らえてきていただけますか。中庭の柳の木の下あたりにいるはずです」
アレクシスは僅かに眉をひそめたが、すぐにその意図を察した。
「…承知した。仮説を、証明するのだな」
アレクシスが音もなく部屋を出ていき、程なくして戻ってきた。その手には、指示通りの小さな甲虫が、指の中で僅かにもがいている。リンネはそれを受け取ると、冷静な観察眼で見つめた。
「Nigidius formosanus…。この辺りではごくありふれた、クワガタ科の甲虫ですわ。この子が、わたくしたちの証人となります」
王宮の一室が、即席の実験室へと変わった。
リンネの動きは、まるで精密な儀式を執り行うかのように、無駄がなく、静かだった。ガラスの器具が立てる、硬質で澄んだ音だけが響く。彼女は、採取していた壁の粉末と、『静寂の月桂葉』を一枚、準備した。
まず、その薬草を小さな香炉で燻し、立ち上る白煙を、ガラス管を通して大きな瓶の中へと慎重に満たしていく。
その様子を鋭い視線で見つめていたアレクシスが、静かに口を開いた。
「待て。もし、その煙そのものが強力な毒ならば、なぜ儀式を行う院長やシスターたちは無事なのだ?その点を、君はどう考えている」
それは、リンネが地下牢でたどり着いたのと同じ、核心を突く問いだった。
彼女は手を止めず、瓶に栓をしながら、静かに答える。
「…ええ。ですから、これは最終確認ですわ。わたくしの仮説が正しければ、この甲虫は死に、そして、あなたのその問いにも、完璧な答えが与えられます」
リンネは、壁の粉末を瓶の中に投入し、軽く揺すった。甘い香りの煙が、白い粉末と混じり合い、不穏な濁りを生む。
そして、ピンセットで件の甲虫をつまむと、そっと瓶の中へと降ろした。
甲虫は、見慣れぬ環境に戸惑うように数秒間もがいたが、次の瞬間、その肢の動きが不自然にこわばり、痙攣とも呼べぬ微かな震えを最後に、ぴたりと動きを止めた。
瓶の中では、あの第三病棟の環境が、完全に再現されていたのだ。
仮説は、反論の余地のない事実として、目の前に提示された。
アレクシスが息を呑む隣で、リンネは、ふと、ある衝動に駆られていた。
この探求の仕方、この思考の道筋。それは、他ならぬ母から受け継いだものだった。
彼女は、まるで何かに導かれるように、自らの荷物の中から、母が遺した手書きの植物図鑑を抜き出した。
ざらついた革の表紙をめくり、慣れ親しんだ母の筆跡を指でなぞっていく。そして、あるページで、彼女の指が止まった。それは、以前読んだ時には意味をなさなかった、地方の鉱物に関する覚書だった。
『――この地方の特定の採石場から取れる石灰岩は、熱した植物精油と反応し、有毒な気体を発生させる性質を持つ。古文書には「嘆きの壁」として記されている…』
リンネは、息を呑んだ。
事件とは無関係に、純粋な探求心から記されたであろう、母の発見。
わたくしが今、この目の前の瓶の中で証明した化学反応の原理を、母様は、とうに突き止めていたのだわ。
それは、単なる記述の発見ではなかった。時を超え、母の思考の痕跡に、自らの思考が重なった瞬間だった。
アレクシスは、言葉もなく、テーブルの上にある三つのものを見つめていた。
魂の救済のために特別に調合された、清涼な香りの薬草。
施療院の壁に使われていた、ありふれた建材。
そして、その二つが合わさった結果、命を落とした、ありふれた一匹の虫。
それらは、ただの物言わぬ物質に過ぎない。だが、その組み合わせが、これほどまでに残酷な殺人装置と化す。その冷徹な事実だけが、ランプの光に照らされ、静かに横たわっていた。
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