第4話:死体(しるし)
リンネの思考の底に沈んだ、不快な澱。
それを振り払う唯一の方法は、彼女が最も得意とする領域に没入することだった。すなわち、未知の現象を前にして、ただ観察し、分析し、仮説を立てる。そのための絶好の機会は、あまりにも早く訪れた。
「――新しい方、お願いできますか。第三病棟の、ヨハン翁が…神の御許に召されました」
ベテランのシスターにそう告げられた時、リンネは他の雑役婦たちが微かに顔を顰める中で、ただ静かに頷いた。死者の体を清める。それは誰もが進んでやりたがらない、不浄とされる仕事。だが、リンネにとっては、偽りのない真実を語る、最も雄弁な証拠に触れることを許された、またとない好機だった。
第三病棟の片隅、簡素な寝台に横たわる老人の亡骸を前に、リンネは祈りを捧げるシスターの監視の下、淡々と聖水に浸した布を絞った。その手つきに、畏れも、憐憫もない。ただ、探求者としての冷徹な集中力だけが、彼女の指先を支配していた。
「…おや」
老人の手を拭いていたリンネの動きが、ごく僅かに、しかし、確かに止まった。
シスターの目には、ただ丁寧に指先を清めているようにしか見えなかっただろう。だが、リンネの紫水晶の瞳は、その爪に現れた微かな異常を見逃さなかった。薄い紫色。まるで、ブドウの汁をこぼしたかのような、不自然な変色。それは、先日亡くなった別の患者の爪にも、確かに存在した痕跡だった。
さらに、彼女が遺体の口元を清めようとかがんだ瞬間、鼻腔をかすめた香りに、リンネは眉をひそめた。腐敗臭とは明らかに違う。消毒用の薬草の香りとも違う。微かに、そして、どこか粘つくような甘い匂い。脳裏の記憶が、瞬時に過去の複数の遺体とこの香りを結びつける。
(…共通する兆候が、二つ)
思考が、加速する。
清拭の儀を終え、シスターが祈りのために目を伏せた一瞬。リンネは、部屋全体を素早く、しかし、網羅的に見渡した。そして、決定的な違和感に行き着く。
壁だった。
犠牲者が続出しているこの第三病棟の壁にだけ、他の病棟とは明らかに違う、奇妙に黒ずんだ染みが、まだらに浮き出ているのだ。それはカビのようでありながら、どこか鈍い光沢を帯びている。
(まるで…湿気で錆びた、古い銀食器のようですわね)
リンネは、内心でそう呟いた。
場所の特異性(第三病棟)、爪の変色、特有の甘い匂い、そして、壁の染み。
バラバラだった事象が、一本の線で結ばれていく。
彼女の思考から、昨日までの不快な澱は消え去っていた。目の前には、解き明かすべき、物理的な謎がある。
(あの壁の漆喰…この土地特有の何かが、混ぜられている…?)
リンネは、自らの内に生まれた新たな仮説の、冷たい手触りを確かめるように、静かに拳を握りしめた。
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