第15話:公式記録の空白
「…どうかなさいまして?」
リンネは、すでにアレクシスへの興味を失い、再び毒針毛の観察へと戻りながら、怪訝そうに問いかけた。
アレクシスは、目の前の少女が、もはやただの貴族令嬢には見えなかった。彼女は、この国の常識から逸脱した、異質で、危険で、そして何よりも、美しい知性の怪物だった。そして、この事件を解決するための、唯一無二の鍵だった。
この知性を、ここで手放すわけにはいかない。
アレクシスは、彼女の作業台へと一歩踏み寄ると、深く、深く、頭を垂れた。それは、貴族に対する儀礼的なものではない。心からの敬意の表明だった。
「あなたの知性は、単なる知識ではない。本件の本質を見抜く『慧眼』だ。リンネ姫。私は今、あなたに正式に依頼する。どうか、この事件の捜査に、あなたの力を貸していただきたい」
リンネは、しばらくの間、黙って彼を見下ろしていた。その瞳の中で、彼という「道具」の価値が、改めて査定されているのが分かった。
やがて、彼女は、まるで希少な昆虫標本を眺めるかのように、薄い唇を開いた。
「…よろしいでしょう。…この事件は、わたくしの退屈を紛わすには、丁度いいようですから」
彼女は、一つの条件を付け加えた。
「わたくしが興味があるのは、事実のみ。あなたの推論や憶測ではなく、その手で掴んだ物理的な証拠だけを、わたくしの元へ」
「…契約、成立と受け取る」
二人の間に、歪な協力関係が結ばれたのだ。
アレクシスは懐からガラス瓶をそっと取り出す。
「では、この『サナギ』も毒蛾のもので間違いない、と?」
「あら、状態のいい…。…ええ、そうですわ。……わたくしの標本に加えてもよろしくて?」
__リンネは、早速、最初の指示を与えた。
「この毒針毛の主が食草とする『月光草』の公式な自生記録は、公爵領の土地台帳によれば、三箇所。論理はまず、既知の事実から検証するべきです。騎士殿、この三箇所を徹底的に調査し、何者かが立ち入った痕跡を見つけ出しなさい」
その指示を、アレクシスは忠実に実行した。
最初に向かったのは、領地の東に広がる、霧深い湿地帯だった。月光草の群生は、すぐに見つかった。だが、そこには、獣の足跡以外、何者かが立ち入った痕跡は一切なかった。
二箇所目は、古い城の跡地に広がる沼だった。しかし、結果は同じだった。
そして、数日が過ぎた。最後の一箇所、南の森の奥深くにある泉の周辺も、人の痕跡は何一つ見つからない。
宿屋に戻ったアレクシスの前には、地図が広げられている。リンネが指し示した三つの地点には、無慈悲な×印が書き込まれていた。
リンネの仮説は完璧なはずだった。だが、それを裏付ける物理的な証拠が、どこにも存在しない。公式記録に記された場所は、すべて空振り。
捜査は、完璧な暗礁に乗り上げていた。
契約によって手に入れたはずの唯一の光が、まるで分厚い霧に覆われたかのように、その行き先を見失っていた。
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