663、絶体絶命氷の女神
『水球』
ドロガーはあまり得意でない水の魔法を使う。襲い来る無数の蝶を減らすためには他に方法もないのだ。だが、いくら水をかけても少しも減ったように見えない。背の低い女から魔力の供給でも受けているかのように。
それでもクロノミーネを救うべく、愚直に歩みを進める。いくらクロノミーネでもあれほどの高熱の蝶に囲まれては……
『水球』
少しでも大きく、少しでも数多く。水の魔法を使い続けるドロガー。
『水球』
何度も魔法を使い、ようやく目の前の蝶は消えた。
『水球』
今度はクロノミーネを覆う蝶に向かって魔法を使う。何度も何度も。
「意外にしぶとい。でももう魔力がない。逃げるなら追わない」
アレクサンドリーネは背の低い女を相手に苦戦していた。氷壁や水壁を張るもことごとく破られて。
「はぁ……はぁ……逃げるわけないわ……勝つのは私って分かってるのに……」
「分かった。じゃあこっちも仲間が危ないから終わらせる」
『火蝶翔旋』
それまでは無差別に襲いかかっていた赤い蝶が一斉にアレクサンドリーネの周囲を回り始めた。わずかな隙間もない。たちまち視界が真っ赤に染まる。
「最後の忠告。今からでも降参すれば命はとらない。本気で勝ち目があると思ってるならあなたはただの愚者」
「勝ち目がどうとかって話じゃないわ。私が勝つの。ただそれだけ。大国の魔法使いを見くびらないことね。」
「分かった。覚悟ある者に対して無粋だった。あなたの顔は忘れない。あと胸も」
『火蝶収斂』
数多の蝶がまたたく間に中心へと集まっていく。アレクサンドリーネを押し潰し、焼き尽くさんと。
「さて、どっちから助ける」
背の低い女は踵を返し、その場を離れていく。周囲はすでに真夏の熱気に覆われていた。
『鎮痛』
女は地面でのたうち回る同僚に魔法をかけた。
「がっはっ、はうっ……がっはぁっはぁっはぁ……はーー……すまぬ……助かった……」
「油断はよくない」
「いや、油断では、いや何でもない。さて、気を取り直し、いかん!?」
立ち上がったばかりの男が女を押し飛ばした。直後、氷の塊がその身に直撃し……吹っ飛んでいった。
「驚いた。もう魔力は空っぽだった。なのによく生きてた。秘密は……そのコート。お洒落で素敵」
「正解よ……サウザンドミズチのコート。焦げ跡ひとつ付いてないわ。」
だが、それでも今の一撃は最後の魔力を振り絞って放ったはずだ。アレクサンドリーネは震える足でどうにか立っているだけにすぎない。
「女神ぃ……クロミがやべぇ……手ぇ貸せ、と言いてぇとこだが……おめぇも余裕ねぇな……」
「一人仕留めたんだから、どうにかして。ただ、クロミに限って心配はいらないわ……でしょ?」
「ちっ、そりゃあそうだがよぉ……」
「あなたは女神。でか乳女神。名前負けしてる」
『火扇』
熱風がアレクサンドリーネを襲うが、どうにか耐え、一歩ずつ女に近づいていく。
「無駄。接近戦に付き合う気はない」
『浮身』
ふわふわと浮いてしまった。そして上空から……
『飛礫』
無数の小石がアレクサンドリーネだけでなくドロガーや蝶に包まれたクロノミーネにまで降り注ぐ。
二人は辛うじて致命傷は免れたようだがクロノミーネは分からない。先ほどから微動だにしていないのだから。赤い蝶の高熱を考えれば、とっくに炭と化していてもおかしくはないが……
敵には情けを見せたくせに仲間は容赦なく巻き込む。これが天道魔道士なのか。それとも仲間の腕を信頼しているが故か。
『火蝶翔旋』
再びアレクサンドリーネの周囲を赤い蝶が舞い始めた。しかし先程と違うのは襲う気配がないことだ。間近を舞い続けてはいるものの、ぐるぐると回るのみ。それ以上接近しようとしていない。
もちろんアレクサンドリーネも気付いている。このままではカースに蒸し焼きにされたサウザンドミズチのようになってしまうと。いや、それ以前に呼吸ができるかも怪しいだろう。
だが、アレクサンドリーネが一歩足を踏み出せば、それに合わせて赤い蝶も範囲を変える。常にアレクサンドリーネを中心に置いたまま包囲を継続する戦法らしい。
そのようなものは一気に駆け抜ければ良さそうなものだが、今のアレクサンドリーネにできるはずもない。立っているだけ、歩くだけでも精一杯なのだから。ましてや少しでもコートから顔を出そうものなら、たちまち肺の中まで焼かれてしまうことは必定。必死に女の魔力を探りながら前進を続けていた。
しかし……
不運なのか仕込みなのか、窪みに足をとられ姿勢を崩す。その瞬間、赤い蝶は一斉に獰猛さを発揮したかのようにアレクサンドリーネにまとわりついた。コートの隙間に入り込むように。下賎な男が娼婦の服に手を突っ込むように。
それでもアレクサンドリーネは冷静だった。地面を転げまわり、必死に蝶をかき消しながら距離をとろうとしている。
「無駄。上から丸見え」
『飛礫』
今度は小石なんてものではない。人の頭ほどもある岩が降ってくる。地面を転がり回っているアレクサンドリーネには偶然以外で避ける術はない。
背中、腰、膝。三ヶ所に命中した。外傷が付くことこそないものの、アレクサンドリーネの右膝はもう動かない。転げ回ることもできなくなった。
「その服すごい。でもさすがにもう無理。最後に言い残すことがあるなら聞く」
「わ……」
「何。はっきり言う」
「わ、私の……勝ちよ!」
『カーーーーーース!』
アレクサンドリーネは自然に纏っている魔力すらかき集め、拡声を使った。誰もが無意識に纏う免疫のような魔法防御。それに使っているであろう魔力すら全て。
つまり、今のアレクサンドリーネは赤子程度の魔法防御すらない。そして地面に倒れ伏し、意識を失った。
「終わった。放っておいても焼け死ぬ。でも敬意を表して首をもらう。でか乳女神。強き大国の魔法使い。あなたのことは忘れない」
女が魔力の流入を止めると、蝶は一斉に消えた。クロノミーネを覆っていた蝶すらも。
『魔刃』
杖の先から魔力が吹き出し、刃を形成した。威力は違えどカムイの魔力刃と似たようなものだろう。
「美しい顔。剥製にして飾る。胸はいらない。大きくて醜い」
『浮身』
アレクサンドリーネの頭部をわずかに浮かせた。断頭台に頭を置く死刑囚のように。
「やめろおぉぉーー!」
ドロガーが体当たりを敢行するが……
『火扇』
熱風で吹き飛ばされた。全身の火傷がますます酷くなっていく。
「や、やめろ……マジでやめろ……ひ、ヒイズルが……終わる……全部、何もかも……やめろ……」
「何を言ってる。強き者には敬意を表してトドメを刺すのが礼儀。蒸し焼きでじわじわ殺すには惜しい」
「ち、違う……そんな話じゃねぇ……そいつを殺したら……マジでヒイズルが……海の藻屑んなっちまう……やめろ……やめろ……」
「意味が分からない。ローランドの報復があると言いたい。それなら受けて立つ。バカ兜は役に立たないけど天道魔道士は最強」
「だから違うってんだ! ローランドの魔王の話ぃ聞いてねぇのかよ! あいつぁマジでやべぇんだって! マジで魔王なんだよぉ! ああもう分かった! そんなら先に魔王を殺せ! 洞窟ん中で寝てるからよぉ! そしたら女神ぃ殺しても問題ねぇ! な!? そうしろ!」
「味方を売る。そんなの嫌い。寝てる奴を殺すのも嫌。私は敬意を表したデカ乳女神だから殺す」
必死のドロガーの説得もどこ吹く風。女は杖を上段に振り上げた。
「やっ、やめろおぉぉぉーーー!」




