654、アーニャ・カームラの孤闘
外に倒れた女達を全て洞窟内に運び終えたアーニャは、入口辺りで見張りをしていた。アレクサンドリーネから、夜襲はあるけど気にせず寝るよう言われてはいたが自分以外の全員がことごとく倒れてしまった今……アーニャがどうにかするしかない。
カース達に比べたら、戦う力も魔力もほぼないアーニャである。せめて見張りだけでもし、何者かが現れたら仲間を起こす程度の役には立ちたいと考えている。
そして夜が明ける。冬の朝特有の冷たさがアーニャの意識を呼び覚ます。そうして外の様子を窺ってみれば……ところどころに倒れている紫の鎧。首のない死体もあれば鎧を纏ってない死体もある。
首がなければ死体と分かるものの、頭部まで紫の兜に覆われ、ぴくりとも動かない相手に対してはどう判断していいか分からないアーニャ。もちろん恐ろしいエチゴヤの戦闘部隊ということは知っている。あのうちの一人でも起き上がり、襲いかかってきたなら……自分では相手にもならないことも。
「やるしか……」
今なら、ぴくりとも動かない今なら勝機はある。鎧の隙間から槍でも剣でも刺せばいいのだ。日が出たこともあるし、起き上がる前に事を済ませるしかない。そう考え……洞窟を歩み出て……落ちていた槍を拾った。
「い……生きてるのかな……」
アーニャは恐る恐る兜の目の部分をずらした。その青紫烈隊、どうやら男の目は開いておらず、眠っているのか死んでいるのかの区別は付かない。触って確かめる度胸もなければ、その必要もない。
「や……やる……やるから……」
自分に言い聞かせ、槍を隙間にあてがう。
しかし、なかなか覚悟が決まらない。穂先が眉間に当たり、かすかな傷を付けた。血は流れない。
「はぁー……はぁー……はぁ……やる……私がやらないと……み、みんなが……」
それでも槍を持つ手から力が抜ける。無理もない。十五に満たない村娘が、人生で最初の……いや、前世を含めても初めての殺人を実行しようとしているのだから。人型に近い魔物ならゴブリンやコボルトを仕留めたことはあるが、本当の人間を殺したことなどあるはずもなかった。
「和真ぁ……助けてよぉ……ううっ……」
震えはどんどん酷くなる。槍が兜の隙間に当たりガチガチと音を立てる。
どさりと音を立てて地面に落ちたのは男の腕だった。
「ひいいっ!」
意識を取り戻したのか、それとも振動の所為なのか。アーニャに判断はつかない。
つかないが……アーニャの槍は眉間を貫いていた。驚いた拍子でそうなったのだろう。
「あああああっ!? や、わ、私、や、やって、さし、刺して……」
槍を手放し尻もちをついたアーニャ。槍は微動だにせず突き立ったままだ。
「はっは……っはっ……うぷっ……うえええ……おえっ……えっえっえっ……うぶぶっ……」
そのまま冷たい地面に手を着き、胃の中身を吐き出していく。びくともしない槍……つまり、男の顔に深く突き刺さっている証なのだから。
「ううっうっ……わ、私……やっちゃっ……おええええっ! おぼぼぼっごほっおっおあぅっ……」
吐くものがなくなっても吐き気は止まらない。黄土色の液体が出ても、なお。
朝の静謐な森にアーニャの声が響く。
アーニャも頭では分かっている。今、このような醜態を晒している場合ではないと。今を逃せば、もう勝ち目はないとも。
だが、それでも体が動いてくれないのだ。
辺りに飛び散った血しぶき、充満する血の匂いを思うだけで体が凍ったように動かなくなる。確かに氷点下の森ゆえに寒いのは当然なのだが。
そして……
「うぷっ……うえっ……あ、あれ?」
少し冷静さを取り戻したのか、ふとあることに気付いた。
「臭く……ない……血も流れてない……」
アーニャが知るはずもないことだが、彼女が使った槍、穂先はムラサキメタリック製である。つまり、突き刺さった後はその自重で顔を切り裂き倒れるのが普通である。きっちり垂直に突き立てたわけでもないのだから。
しかし、一向にその気配はない。
その上、男の顔周辺から血は流れ出ていない。
そしてようやく気付いた。その男がすでに死んでいたことを。
真冬の森で大量の水をかぶり、地べたに直接フルプレートアーマーで横たわっているのだ。どの程度の温度調節機能が付与されているのかは分からないが意識が戻らなければ普通は凍死する。だからこそクロノミーネは女達を洞窟へ運べと言ったのではないだろうか。カース達を暖かい水で覆ったのではないだろうか。
「も、もしかして……」
アーニャは震えながらも立ち上がり、一人一人兜を開き……トドメを刺していく。何度も吐きながら。
おそらく今そのようなことをする必要はないのだろう。だろうが、アーニャは実行した。吐き出す黄土色の液体がじょじょに赤黒くなっていっても。
どうせやるのならばきっちり首を落とす必要があるのだが、さすがに不可能だろう。眉間に槍を突き刺すだけでも上出来というものだ。
「や、やった……お、終わった……全員、確実に……」
安堵して地面に倒れ込もうとした時だった。
遠くから、金属音が聞こえてきたのは……




