クリスマスイブの出産
1933(昭和5)年12月24日日曜日午前0時20分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「姉上、大丈夫?」
盛岡町邸の車寄せ。自動車の後部座席に座る私の長女・万智子に、冬期休暇で工兵士官学校の寄宿舎から盛岡町邸に戻っている次男・禎仁が問いかける。
「平気よ、今はね」
弟に答えた万智子の顔が、次の瞬間、僅かに歪んだ。「痛みが来ましたか?」と左隣にいる私の乳母子・東條千夏さんが尋ねると、万智子は黙って頷く。千夏さんは左手の懐中時計を覗き込み、「今で9分間隔でございますね」と万智子に伝えると、空いている右手で万智子の身体をさすり始めた。
嫁ぎ先の南部家から10月末に我が家に帰った万智子は、のびのびと、そして元気に過ごしていた。12月の半ばになってから、時折、陣痛のような下腹部の痛みを訴えていたのだけれど、昨日の午後11時半ごろ、その痛みが10分間隔で起こるようになった。彼女は盛岡町邸ではなく、牛込区にある東京女医学校付属病院での出産を希望していたので、彼女の主治医である吉岡弥生先生と連絡を取り合い、夜遅くではあるけれど、東京女医学校附属病院に緊急入院することになったのだ。
「禎仁、南部さんの家に連絡をお願いね」
深緑色の和服を着た私が、次男にお願いしながら万智子の右側の席に乗り込むと、
「章子さん、万智子を頼んだよ。僕も着替えたら、病院に向かうから」
寝間着の上に青い羽織を引っ掛けている栽仁殿下が、自動車のドアに首を突っ込むようにしながら私に言った。
「へ?父上、そんなことして……月曜からの勤務は大丈夫なの?」
「ああ、伝えてなかったか。万智子のことがあるから、思い切って、昨日から年明けまで休みを取ったんだ」
会話を交わす夫と次男に、「とにかく、行ってくるね!」と叫ぶと、有栖川宮家の職員が、外から自動車のドアを閉める。それを合図にするかのように、私たちの乗った自動車は滑らかに発進した。
盛岡町邸から北に数km離れた東京女医学校付属病院に向かって、自動車は深夜の東京の街をひた走る。今日は12月24日、クリスマスイブだから、私の時代なら、街の至るところにクリスマスのイルミネーションが輝いているだろうけれど、この時の流れでは、クリスマスという行事は私の時代ほど世間には浸透していない。暗い街を、私たちの乗った自動車は静かに駆け抜けていた。
「母上……陣痛は、こんなに痛いものなのですか?」
私の左に座る万智子が、私の手を掴み、か細い声で私に聞いた。「そうね」と応じた私は、娘の手を握り返し、
「母上は痛みに弱いから、あなたを産んだ時、この時点で錯乱して泣き叫んでいたわ」
と言った。本当は、私が妙なことを口走っていたのは、もっとお産が進んでからだったと思うし、万智子の陣痛も、これからもっと激しくなるだろうけれど、出産に臨む娘の心の負担を少しでも取り除きたかったのだ。
(万智子の初めてのお産……母子ともに健康で終わるといいわね)
私がこう考えた時、自動車は東京女医学校附属病院の門をくぐった。
私たちが牛込区にある東京女医学校付属病院に到着したのは、12月24日の午前1時前だった。万智子はすぐに病室に連れて行かれたので、私と千夏さんは案内された控室で仮眠を取った。午前2時ごろ、灰色の背広服に着替えた栽仁殿下、そして、万智子の夫の南部利光くん、万智子の義理の両親である南部利祥上皇武官長と妻の萬子さんが控室に現れた。
「ああ……」
控室のドアが開く音で目を覚ました私が、南部さんたちにあいさつしようとした瞬間、
「あら、皆さま、お早いご到着ですね」
南部さんたちの後ろから聞き慣れた声がした。東京女医学校の校長で私の恩師・吉岡弥生先生が、南部さんたちの後ろに立ち、私たちに笑顔を向けていた。
「弥生先生……夜遅くにありがとうございます」
私が弥生先生に深く一礼すると、
「私の初めての教え子のお子さんのお産ですからね。それに、そのお子さんも私が取り上げていますし」
弥生先生はそう言ってまたニッコリ笑った。紫の着物に黒の女袴という服装は、今は少し古めかしいのかもしれないけれど、昔と変わらない恩師のスタイルだ。
と、
「あら、ご主人も、こんな早くからいらしていただいたのね」
弥生先生がこの場にいる人間の中で一番若い利光くんに目を留めて言った。「は、はい」と緊張気味の声で返事をした利光くんに、
「お産はまだまだこれからですよ。奥様は初産ですから、もしかすると、赤ちゃんが生まれるのは、明日の日付が変わるころになるかもしれませんが……お仕事は大丈夫ですか?」
と弥生先生は尋ねた。
「はい、前内府殿下から少しお話を聞いていたので、明日の勤務は休むよう届を出す準備をしてから家を出ました」
利光くんは弥生先生にハキハキと答える。彼は現在、騎兵少尉として第1師団で勤務している。第1師団の騎兵は千葉県の習志野で活動することが多いけれど、今日は日曜日だから東京に戻っていたのだろう。
「それは素晴らしいわ。……とにかく、長丁場になりますから、皆さま、適宜休憩はお取りになってくださいね」
弥生先生は利光くんを褒めると、私たちに注意をしてから万智子の病室へと去っていく。
「弥生先生の言う通りよ。まだ先は長いから、仮眠を取りながら焦らず待ちましょう」
私も利光くんや南部さんたちにこう言うと、控室の長椅子に座り、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
交代で仮眠を取りながら、私たちは万智子と利光くんの赤ちゃんが生まれるのを待った。やはり初産だからか、万智子のお産はなかなか進まない。疲労と沈黙とが控室を覆う中、
「万智子さまは、大丈夫でしょうか……」
12月24日の午後7時ごろ、利光くんがポツリと呟いた。万智子が附属病院に入院してから、約18時間が経過している。
「大丈夫じゃないかしら。利光が生まれた時も、お産に丸一日かかりましたよ」
萬子さんがのんびりと言ったのに続いて、
「萬子さまの言う通りね。初産だと、お産がなかなか進まないことも多いのよ」
と私も娘の婿をなだめる。
「けど、さっきから、万智子の病室に、看護師さんや助産師さんがたくさん出入りしているね」
栽仁殿下はそう言いながら椅子から立ち上がり、控室のドアを少し開けて廊下を覗いた。
「うん、今も看護師が1人、万智子の病室に入ったよ」
「そう?じゃあ、お産が進んで、人手が必要になっているのかも……」
しれない、と私が言おうとした瞬間、栽仁殿下が開けたドアのすき間から、力強い赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
「これは……」
「もしかすると、生まれましたかね」
立ち上がった南部さんと栽仁殿下が顔を見合わせた時、廊下の方からパタパタと足音が近づいてきて、
「申し上げます。万智子さまは、無事に女の子をご出産されました」
万智子に付き添っていたと思しき助産師さんが、私たちに報告してくれた。
「女の子ですか!」
「万智子さまの子供ですから、きっと可愛い子に違いありませんわ!」
千夏さんと萬子さんが喜びの声を上げる一方、
「万智子さまは無事ですか?!今、万智子さまに会えますか?!」
利光くんが席を立ち、掴みかからんばかりの勢いで助産師さんに質問した。
「利光、落ち着け。まだ後産があるだろう」
父親の南部さんが後ろから利光くんの肩を叩いて止める一方、
「ええと……とにかく、もう少ししたら、万智子の病室に入れますよね?」
利光くんの横から、私は報告に来てくれた助産師さんに優しく尋ねる。
「は、はい、そうなりましたら、皆さまをお呼びしますので……」
助産師さんは弾かれたように答えると、私たちに深く一礼して万智子の病室に戻っていく。後産が無事に終わり、私たちが万智子の病室に入ったのは、午後8時前のことだった。
「万智子さま、ご家族がいらっしゃいましたよ」
弥生先生に声を掛けられた万智子は、病室の入り口に背を向けるようにしてベッドに横向きに寝ていた。万智子のベッドと入り口の間には、生まれたばかりの女の子が、新生児用のベッドに寝かせられてすやすやと眠っている。違和感を覚えた私がそれを口にしようとした時、
「家族が……?」
と呟いた万智子が、頭をゆっくりとこちらへ動かす。そして、両目を丸くすると、急にベッドの上に身体を起こした。そのまま床に足をつこうとする万智子を、「いけませんよ、まだ立つのは早いです」と弥生先生が正面から抱きかかえて止めた。
「万智子?」
「万智子さま?」
栽仁殿下と萬子さんが同時に呼びかけた時、
「申し訳ございません!」
弥生先生の腕の中でもがきながら、万智子が叫んだ。
(は……?)
なぜ出産を終えたばかりの娘は、謝罪の言葉を口にするのだろう。疑問に思った私の耳に、
「嫡男を挙げることができず……」
彼女の信じがたい台詞が飛び込んだ。
(な?!)
「嫁の務めは、男の子を産むこと。それなのに、私は男の子を産むことができませんでした……」
目を見開いた私の前で、万智子は私には理解し難いことを言い続ける。確かに……確かにそれは、昔なら通用する話かもしれないけれど、今は……それに、未来に生きた記憶を持つ私には……。
「私は役立たずな嫁でございます。ですからお義父さま、お義母さま、どうか私と利光さまとの離縁を……」
私は何かに操られるように万智子のそばに歩み寄る。そして、両目に涙をためた彼女の胸倉を掴み、
「いい加減にしなさい!」
と叫んだ。
「それじゃ、何?!3人姉弟の中で最初にあなたを産んだ私は役立たずだってこと?!」
「宮さま?!」
「前内府殿下?!」
私の剣幕に驚いたのか、千夏さんと弥生先生が、私と万智子の間に割って入ろうとする。けれど私はそれを無視し、
「あなたが生まれた時、私はとっても嬉しかったのよ!」
と娘に言葉を叩きつけた。
「あなたの父上だって、泣いて喜んでくれた。おじじ様もおばば様も、もちろん、有栖川のおじい様もおばあ様もひいおばあ様も、赤坂のおばあ様も喜んでくれたのよ!謙仁が生まれることなんてまだ分からなくて、あなたの他に子供が生まれなければ、有栖川宮家は断絶するという時によ!」
「章子さん、落ち着いて!」
栽仁殿下が後ろから、私の右手に手を掛ける。いったん万智子の寝間着から手を離して夫の手を振り払うと、私は再び娘の寝間着の襟を掴んだ。
「万智子、産んだのが女の子だから、子供に背を向けていたというのなら……女の子だから育てたくないと言うのなら、この子は私が育てるわ。愛情をもって自分に向き合ってくれない母親のところにいるよりも、私が育てる方が……」
「前内府殿下!」
更に万智子に言葉をぶつけようとした私の身体に、想定外の力が掛かる。万智子の夫・利光くんが、私と万智子の間に割って入り、私を万智子から引きはがしたのだ。それに負けずに万智子に手を伸ばそうとした私は、後ろから栽仁殿下に羽交い絞めにされ、身動きが取れなくなった。
「万智子さ……万智子、初めてのお産で不安だったと思うけど、本当によく頑張りましたね」
私を払いのけた利光くんは、万智子の両手を掴むとこう言った。口を開こうとしない万智子に、
「男だろうと女だろうと、この子は僕とあなたの大切な子供です。一緒に、大事に育てましょう」
と利光くんは語り掛けた。
「でも……利光さま、女の子では、家を継げない……」
震える声で応じた万智子に、
「南部の家のことは、考えなくて大丈夫です。いざとなったら、この子を大事にしてくれる男性を婿養子に迎えればいいんですから」
利光くんは力強く言う。
「利光さま……」
「それに……万智子、は、僕との子供を、この子だけで終わらせるつもりですか?」
利光くんが真正面から万智子を見つめて尋ねる。
「それはどういうことですか?」
万智子が首を傾げて尋ねると、
「僕は、愛しい万智子……との子供を、何人でも育てたいと思っています」
利光くんは情熱的な口調で答えた。
「へ?」
「もちろん、お医者さまの許可が出れば……ですが、僕はもっと賑やかな家庭を作りたいんです。僕とあなたの大切な子供たちで賑やかになった家庭を。子供が男だろうと女だろうと構わない、1人1人が、僕とあなたの大切な子供で……」
「と、利光さま!」
熱っぽく語り続ける利光くんを、万智子が慌てて止めた。
「も、申し訳ありません。子供を産んだばかりなのに……」
サッと頭を下げた利光くんに、「そうじゃなくて!」と返した万智子は、
「母上が、倒れそうになってるから!」
と叫ぶ。
「章子さん、大丈夫?」
「あ、うん……平気……たぶん……おそらく……」
一同の視線を浴びる中、栽仁殿下に後ろから抱きかかえられた私は、彼の問いに何とか答えた。不用意に娘婿の情熱的な言葉を浴びてしまったため、頭の回路が焼き切れてしまったのだ。
「相変わらずですね、色恋が絡むことに弱いのは」
「し、仕方ないでしょう……」
呆れたように言う南部さんに言い返した私は、ハッと気が付いて、
「あ、兄上には今のこと、言わないでくださいよ!」
と南部さんにお願いした。
「それは無理でしょう」
けれど、南部さんは左右に首を振った。
「明日は休みますが、休んだ理由を上皇陛下にお話ししなければなりません。となると、この出産のことは、細大漏らさず話さなければならないでしょう。いえ、私の方で話を省略しようとしても、上皇陛下はきっと“全てを報告せよ”と仰せになりますから……」
「だ、だから南部さん、やめて!それは絶対にやめて!」
私が南部さんに懇願した時、小さな笑い声が聞こえた。万智子が右手で口元を隠しながら笑い出したのだ。その笑いは次第に栽仁殿下や利光くん、そして南部さんや萬子さんにも伝染し、やがて、病室にいる人全員が笑い始める。
緊張した空気に包まれていた病室に、ようやく、和やかな雰囲気が戻ってきた。




