1933(昭和5)年11月の梨花会
1933(昭和5)年11月11日土曜日午後1時57分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
この部屋では、数分後の午後2時から梨花会が開かれる。いつもなら、出席者の大半が既に自席に座っているのだけれど、今日は立憲改進党幹事長の町田忠治さんが困惑したように机のそばに立っていた。先月までの自分の席に、私の夫・有栖川宮栽仁王殿下が腰かけていたからである。
「あの……恐れながら、有栖川宮殿下」
町田さんは栽仁殿下の斜め後ろから、恐る恐る声を掛けた。
「この席は下座にございます。殿下がお座りになるべき椅子は、あちらの上座にございますが」
すると、
「いえ、ここです」
栽仁殿下は町田さんの方に顔を向けると、首を左右に振って答えた。
「僕はこの梨花会では新参者です。それに、僕はお情けで合格点をもらったようなものですから、実力も皆様の中では最下位です。だから、僕は末席に座るのが妥当です」
「お心がけは、大変ご立派だと思うのですが……」
町田さんへの栽仁殿下の答えを聞いた参謀本部長の鈴木貫太郎さんが、やや顔をしかめて言う。
「我々としては、やはり皇族の方に上座にいていただかないと落ち着かないのです。ですから有栖川宮殿下には、お席を移動していただいて……」
すると、
「鈴木閣下らしからぬことをおっしゃいますね」
栽仁殿下は鈴木さんに訝しげな目を向けた。
「参謀本部の会議では、例え皇族が参加していても、階級順で着席するのが習わしではないですか。僕は未だに海兵中佐の身、少なくとも閣下よりは下座にいるべきですし、山本大佐・堀大佐・山下大佐よりも下座にいるべきでしょう」
「それは……」
鈴木さんがとっさに反論できないでいると、
「お待ちください、有栖川宮殿下」
前内閣総理大臣の桂太郎さんが大声で叫んだ。
「我々としては、有栖川宮殿下に、我々の議論の内容を上座から吟味していただきたいのです。皇族というお立場から見れば、我々の議論に、我々では気づかぬ穴があることが明らかになるかもしれません。それを我々にご指摘いただきたいのです」
「桂閣下、お言葉ではありますが……」
栽仁殿下が今度は桂さんに言い返そうとした瞬間、牡丹の間の扉が大きく開いた。黒いフロックコートを着たお上が、内大臣の牧野さんを従えて牡丹の間に入って来る。私たちが慌てて椅子から立ち上がり、お上に深く頭を下げると、
「何かあったのかな?」
お上が牡丹の間を見渡しながら聞いた。
「はい、実は……」
内閣総理大臣の原さんが、先ほどからの栽仁殿下の席順を巡るやり取りについてお上に説明すると、
「それは、栽仁どのに上座にいてもらわなければならないだろう」
お上はあっさりとした口調で言った。
「栽仁どのは、先代の有栖川宮の代わりに梨花会に加えた。ならば、先代の有栖川宮が座っていた原総理の隣の席か、梨花叔母さまの隣に座ってもらうのが妥当だろう」
お上にこう言われてしまっては、栽仁殿下も下座に座るのを諦めざるを得ない。「かしこまりました、では……」と応じて一礼した夫は、私の方に向かって歩いてきた。
「大山閣下、席をずれていただいてもよろしいですか?」
私のすぐそばまでやって来た栽仁殿下は、私の右隣に座っている大山さんにお願いする。「もちろんでございます」と大山さんが最敬礼して椅子から立つと、栽仁殿下はその空いた椅子に腰かけた。
「ちょっと待ってよ」
私は右隣に座った夫を軽く睨んだ。
「お上が私の左側にいるんだから、栽仁殿下が座っているのは私の下座じゃない。それじゃダメよ。私と栽仁殿下で席を交換しなきゃ」
私がそう言って立ち上がろうとすると、
「梨花さんは席を動いちゃダメだよ」
栽仁殿下がすかさず私の両肩を押さえ、私を再び椅子に座らせた。
「梨花さんの方が、この会合に出ている期間が僕より長いんだからね」
「そうかもしれないけど、ここは宮中なんだから、宮中の行事と同じように座るべきよ。私は栽仁殿下の妃だから栽仁殿下の下座にいるべきだし、軍人としては軍籍を持つ内親王になるから、宮中の席次は栽仁殿下より下になるし……」
「それは皇族に限った話でしょ?軍の階級で考えれば、梨花さんは大佐で僕は中佐なんだから、階級が上の梨花さんが上座にいるべきだよ」
(むう……)
このままではらちが明かない。私は栽仁殿下から目線を外すと、
「伊藤さん!」
この場で最も儀礼と席順に詳しいであろう人の名を呼んだ。
「伊藤さんは、私と栽仁殿下の席順、どうすればいいと思いますか?!」
大声で問いかけた私に、
「相変わらず仲がよろしくて結構なことですなぁ」
伊藤さんは満面の笑みを顔に浮かべて何度も頷いて言った。
「ちょっと、伊藤さん!私の質問が聞こえていないんですか?!私と栽仁殿下、どっちが上座に座るべきかと聞いているんですけど!」
私が再び大声を張り上げると、
「はてさて、どうしましょうかのう。有栖川宮殿下のおっしゃることにも、前内府殿下のおっしゃることにも、筋が通っておりますし……」
伊藤さんは、今度はとぼけた答えを返してくる。
(こ、これ……面白がってないか……?!)
私の中で伊藤さんへの怒りが膨れ上がった時、
「では、栽仁どのは原総理の隣に座ればいい」
お上が穏やかな声で言った。栽仁殿下はまた最敬礼をすると、原さんの隣……つまり、私の義父がかつて座っていた席に移動した。
「……有栖川宮殿下、一言、ご挨拶をお願いします」
原さんが囁くように言うと、栽仁殿下は黙って椅子から立ち上がる。そして、一同に向かって、
「この度、梨花会に加わることとなりました」
と、よく通る声で話し始めた。
(あれ……?)
話し始めた栽仁殿下の顔を、私はじっと見つめた。婚儀を挙げた23年前、栽仁殿下は凛々しい美青年だった。そんな彼も、この9月で46歳になった。少し精悍な顔立ちに変化したのは、長年の艦隊勤務の影響だろう。けれど、顔が整っているのは昔と変わらず、年月による深みが、美しい顔に落ち着きを添えている。
「……今はこの通り、上席に座っておりますが、僕自身の能力は皆様方の遥か下と認識しております。一刻でも早く実力面で皆様方に追いつけるよう、粉骨砕身の努力をいたしますので……」
(栽さん……またカッコよくなった?)
梨花会の面々に向かって喋る夫の姿に、私がぼんやりと見とれていると、
「いいですねぇ」
貴族院議員で元内閣総理大臣の西園寺公望さんが、私の方を見て大きく頷いた。
「ご夫婦として年を重ねていらっしゃるが、その中で、ご夫君に再び惚れ直している……ということですか。誠に結構なことですな」
西園寺さんの向かいの席に座る児玉さんがそう言って微笑すると、
「ご夫君と相思相愛の仲でいらっしゃるのは、昔から変わらないようですねぇ」
原さんと児玉さんに挟まれた席にいる枢密顧問官の陸奥さんがニヤリと笑った。
「うむ。やはり、この席順が一番よいですな」
私と栽仁殿下を見比べて満足げにしている伊藤さんの姿が、私の視界に入る。
「……私、帰ります」
心の中で怒りを爆発させた私は、そう言いながら椅子から立ち上がった。
「梨花さま」
私の右隣の席に座り直していた大山さんは、私の軍服の右袖をつかんで頭を左右に振ると、
「有栖川宮殿下も落ち着いてください」
伊藤さんたちを無言で睨む栽仁殿下に向かって穏やかに呼びかける。
「伊藤の爺。……余り、梨花叔母さまと栽仁どのをからかうものではないよ」
お上からもこんな言葉があったので、伊藤さんも西園寺さんも児玉さんも陸奥さんも、「申し訳ございません」とお上に謝罪した。けれど、
(まさかとは思うけど……栽さんを梨花会に入れることになったのって、こういうのを伊藤さんたちが見たかったから……?)
危難をひとまず逃れた私は、最悪の可能性に思い至り、両腕で頭を抱えた。
1933(昭和5)年11月11日土曜日午後2時45分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
栽仁殿下が挨拶をした後で始まった今日の梨花会は、国内情勢に関する話し合いが順調に進んだ。そして、海外情勢についての話し合いが始まったのだけれど……。
「清の春節観兵式事件のことが蒸し返された?」
私の声に、報告を始めた児玉さんが「はい」と返答した。
「あの事件は、欧米の新聞記者などの目撃者も多かったために公表せざるを得ませんでしたが、犯人は精神病を患った朝鮮人で、裁判を待っている間に病死した……という発表が清の政府からなされたと記憶しておりますが」
山本五十六国軍航空本部長も、私の後に続けて発言する。清の春節……つまり正月に行われた観兵式で、光緒帝の馬車列が、清の要人を暗殺して朝鮮を独立させようとする秘密結社に所属する朝鮮人により襲撃されたのは昨年のことだ。もちろん、清の政府が発表した内容は嘘で、実際には、犯人は昨年5月に獄中で毒殺されていた。
「春節観兵式事件の犯人は、朝鮮を独立させようとした秘密結社の構成員であり、朝鮮独立を勝ち取るために光緒帝を暗殺しようとしたのだ……そんな内容の記事が、おととい、フランスの新聞に載った」
児玉さんが山本大佐に答えるような形で低い声で言うと、
「フランスの新聞ですか……。あの国は、自前の諜報機関を持っておりませんから、工作をするにはもってこいですなぁ」
フランスへの留学経験がある西園寺さんが、僅かに顔をしかめた。
「院にもMI6にも、黒鷲機関にもやられ放題ですからね、あの国……」
私がため息をつきながら西園寺さんに応じると、
「児玉の爺、清は、その新聞記事に対して何かするのかな?」
お上が玉座から問いかけた。
「現時点では、黙殺するつもりのようですな」
児玉さんがお上に答えると、
「児玉閣下、今回の記事、どの国が裏で糸を引いているかは分かりますか?」
幣原外務大臣がすかさず児玉さんに確認する。
「下手人がどの国の手の者なのかは、まだ分かりませんな」
「……しかし、目的は、軍縮に関わる交渉を長引かせることにあるでしょう」
児玉さんの答えに続いて、枢密顧問官の山本権兵衛さんがこう言うと、
「なるほど、清の朝鮮統治が上手く行っていないことを知らしめて、“清は朝鮮を支配するのに必要な陸軍兵力の削減に強硬に反対する”という印象を世界各国にばらまくのが狙いですか。そして、年明けの軍縮会議予備交渉における海軍兵力削減の交渉を遅延させ、あわよくば時間切れで交渉中止に追い込みたい……というところでしょうか」
幣原さんが一気に私見を述べて舌打ちした。
「朝鮮のことを持ち出してきたのは、我が国にとっては最悪ですな。これで列強が朝鮮統治に興味を持つ事態になれば、我が国の防衛戦略の見直しが必要になります」
国軍大臣の斎藤さんが眉をひそめたのに続いて、
「よっぽど、軍艦を減らしたくないんでしょうけど……。この事件、どこの国の犯行なのかはきちっと調べる必要がありますね。その国が、朝鮮への進出を目論んでいる可能性も高いし」
私もこう言ってため息をつく。
「今までの流れを考えれば、犯人は黒鷲機関……ドイツの可能性が高いですが」
「いえ、町田閣下。ドイツだけに疑いの目を向けない方がいいかもしれません。ドイツもですが、イギリス・フランスも植民地の統治は必ずしもうまくいっていません。イギリス領のインドでは、ドイツの支援を受けたガンジーらの独立運動が活発ですし、フランス領インドシナでも独立運動が起こっています。そんなところに朝鮮という新たな植民地の候補が降って湧けば……」
町田さんの推測に対して堀海兵大佐がこう指摘すると、
「堀、それを考えるなら、犯人の狙いは軍縮会議の交渉を長引かせることではなく、朝鮮という土地への興味を世界各国に持たせることかもしれない。だから、海外に潜伏している朝鮮を独立させるための秘密結社の構成員が、今回の記事をフランスの記者に書かせたという可能性も出てくるぞ」
山下歩兵大佐が堀さんにツッコミを入れる。牡丹の間のあちこちで、熱い議論が交わされ始め、その声が最高潮に達した時、
「……いずれにしろ、新聞記事を出した者の正体は掴んでおかなければならない、ということかな」
上座からお上のよく通る声が響く。牡丹の間は一瞬で静まり返った。
「児玉の爺、大山の爺、記事を書かせた者の正体については、引き続き調査してほしい」
お上の命令に児玉さんと大山さんが無言で頭を下げて応じると、
「そう言えば、新しい報告事項ができたと言っていたね、内府」
お上は視線を内大臣の牧野さんに向けた。
「はい……。実は、梨花会が始まる直前に、イギリスから通達がございまして、来年4月から5月に、コンノート公の孫のアラステア殿下が、世界一周旅行の途中で我が国に立ち寄るとのことです」
牧野さんはお上に一礼した後、一同にこう報告した。
(コンノート公のお孫さん?)
コンノート公はヴィクトリア女王の第3王子で、現在のイギリス国王・ジョージ5世の叔父にあたる。私は外遊の際、イギリスでコンノート公に会ったけれど、その時には彼は60歳を超えていた。だから、コンノート公に孫がいても全くおかしくないのだけれど……。
「アラステア殿下は、コンノート公の嗣子・アーサー殿下のご長男で、御年19歳でございます」
牧野さんが私の疑問に答えるような報告をして頭を下げると、
「ほう……アラステア殿下に随行して、チャーチルが日本に来ますかな?」
大山さんがこんなことを口にした。
「なんちゅう不吉なことを……」
私は左の手のひらを額に当て、両肩を落とした。
「流石にそれはないんじゃないかなぁ。コンノート公の孫ってことは、イギリスの国王陛下からはちょっと遠い親戚になるし……」
(それに、チャーチルさんとはもう会いたくないなぁ……)
大山さんに反論しながら、私が心の底から願った瞬間、
「まだ随員は決まっていないようですが、アラステア殿下に付き従ってチャーチルが来日する可能性は十分にあります」
幣原さんがとても嫌な予測を口にする。私は机の上に突っ伏してしまった。
「チャーチル……一体何回日本を訪れれば気が済むのですか。“史実”では俺が死ぬまで、一度も日本に来たことがなかったのに」
「私も全面的に同意するわ……」
忌々しげに吐き捨てた山本航空大佐に、私が頭を上げずに応じると、
「なるほど、5年前の軍縮会議の時も、グロスター公に随行してチャーチルが日本に来ましたからね。あの時と同様に、前内府殿下のところを訪れて意見を交換するという展開は考えられます」
陸奥さんがこう言った。声が嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「勘弁してほしいなぁ……」
私が大きなため息とともに吐き出すと、
「大丈夫だよ、梨花さん」
私の前方から声がした。栽仁殿下だ。
「もしチャーチルが日本に来たとしても、前回と同じように冷静に対応すればいい。もし、向こうが無礼な振る舞いに及んだら、毅然とした対応を取ればいいんだし」
ようやく顔を上げた私に、栽仁殿下は力強く言う。すると、
「いや、流石は有栖川宮殿下。前内府殿下をお守りするというお気持ち、しかと見届けさせていただきました」
伊藤さんがまた満足げな表情をして頷いた。
「あのね、伊藤さん。お上にも“からかうな”って言われたでしょ。そういう言動、やめてください」
軽く睨みつけながらお願いした私に、
「何をおっしゃっておられますか、前内府殿下。わしは別にからかったわけではなく、有栖川宮殿下を褒め称えただけです。……のう?」
伊藤さんはなぜか堂々とした態度で答え、周りに同意を求める。「ああ」「うむ」と伊藤さんに賛同する声が上がる中、
「ならば本日は残りの時間で、前内府殿下をお守りなさっている有栖川宮殿下がいかに素晴らしいかを、皆様方にご説明申し上げて……」
と伊藤さんは気勢を上げた。流石にそれは、
「伊藤閣下……そのお話を拝聴したいのはこのわたしも、なのですが、他に話し合わなければならないこともございますので、今日のところはお止めください」
司会役を務める原さんにこんな言葉で止められたけれど、
(あのさ……こんなやり取りを、これから梨花会がある度に聞かされるってこと……?)
先のことを考えた私は、大きなため息をつくしかなかった。




