良薬は口に苦し?(2)
1933(昭和5)年11月4日土曜日午前8時40分、皇居。
表御殿にある臣下用の車寄せに、私が自宅から乗ってきた自動車をつけてもらうと、奥から数名の男性が車寄せに出てきた。皇居に詰めている職員さんが出迎えてくれたのか、と思ったけれど、どうも違うようだ。
「前内府殿下……」
自動車から降りた私は、国軍大臣の斎藤さん、外務大臣の幣原さん、大蔵大臣の浜口さん、農商務大臣の横田さん、枢密顧問官の高橋さん、参謀本部長の鈴木さん、国軍航空本部長の山本五十六さん、立憲改進党幹事長の町田さん、国軍大臣官房長の堀さん、そして山下歩兵大佐……昨日、盛岡町邸には現れなかった梨花会の面々に取り囲まれた。
「ええと……皆さま、どうなさいましたか?」
彼らは一体なぜ、私を皇居で取り囲むのだろうか。もし、昨日の話の続きがしたいということであれば、私のところではなく、栽仁殿下がいる盛岡町邸に行くべきだ。私が軽く首を傾げた瞬間、
「昨日、伊藤閣下や原さんが、有栖川宮殿下に梨花会に入るよう要請しに行ったと思いますが、有栖川宮殿下はその要請をお受けになったのでしょうか?」
斎藤さんが真剣な表情で私に尋ねた。
「いえ……」
私は首を左右に振り、
「栽仁殿下はその要請、断りました」
と斎藤さんに答えた。
「何と……!」
私の答えに目を丸くした高橋さんの横から、
「何か、理由をおっしゃっておられましたか?」
堀さんが、私に食らいつくように聞く。
「その……自分の能力が上がったのは、私のそばにいて、私の話を聞いていたからだ。これでは、私の夫であることを利用して能力を伸ばしたことになるから、同時に選考されていた他の皇族と比べて有利になってしまって不公平だ、というようなことを言っていました。あと、自分の能力は亡き父に劣る。どうしても自分を梨花会に入れたいのなら、自分が亡き父と同じ海兵大将になってからにして欲しい、とも言って……」
「なるほど、有栖川宮殿下らしいお答えですな」
私の言葉を聞いた鈴木さんが頷くと、
「しかし……それで前内府殿下はよろしいのですか?」
山本航空本部長が心配そうに私に尋ねた。
「相思相愛の仲でいらっしゃる御夫君が、ご自宅だけではなく、梨花会の場でもおそばにいらっしゃるのであれば、前内府殿下もお心強いのではないかと思いますが……」
「おい、山本……相思相愛の仲でいらっしゃるのは事実だが、それはこの場で言うことではないだろう」
「ま、まぁ、山本大佐の言う通りではあるんですけれど……」
堀さんが山本航空大佐を止める一方、山本航空大佐の言葉に顔を赤らめてしまった私は一瞬うつむいたけれど、
「……でも、栽仁殿下が梨花会に入るのは、本人が納得してからじゃないといけないと思います。だから私は栽仁殿下に、梨花会に入るのは待つと伝えました」
と、すぐに顔を上げて言った。
すると、
「ご心情は理解できるのですが……」
幣原さんが少し顔をしかめた。
「果たして、それで逃れることができるのでしょうか?」
「いや、逃れることができるでしょうか、って、幣原さん、それは大袈裟でしょう。流石に、皇族の意思が尊重されないなんてことは……」
ここで私は腕時計の盤面を確認した。今の時刻は8時47分……。早く御学問所に行かないと、お上のお出ましに間に合わない。
「あの、そろそろ行かないと遅刻しちゃうので、ここで失礼します。もしまだ私に話したいことがあるなら、午後に盛岡町にいらしてください」
私を取り囲んでいる人たちに一礼すると、私は早歩きで囲みをすり抜け、御学問所に急いだ。
私が御学問所に入ると、お上がすぐに御学問所に姿を現した。内大臣の牧野さんとともにお上を最敬礼で迎えると、
「梨花叔母さま」
お上が私のことを呼んだ。「何?」と応じると、
「栽仁どのは、梨花会に入ってくれそうですか?」
お上は信じられない言葉を口にした。
「?!」
目を瞠った私は、その場から動けなくなってしまった。
(まさか……まさか、栽さんに梨花会に入れって話があったのって、お上のご命令で?!)
だとすると、話が変わって来てしまう。もし、栽仁殿下を梨花会に入れるというのが、お上のご命令でなされたことならば、“梨花会に入らない”と言ってしまった栽仁殿下は、勅命に逆らってしまったことになる。
「あ、あのー、お上……?」
微笑しているお上に、私は恐る恐る呼びかけた。
「その……梨花会に皇族を入れよう、という話、お上はどの程度知っているのかしら……?」
「僕が命じましたよ」
お上は私の質問に、明確に回答する。私はその場に倒れそうになったのを必死に耐えた。
「先代の有栖川宮が亡くなってから、その代わりに梨花会に皇族を加えようと考えていました。ですが、その候補者の中には栽仁どのが当然入るでしょうから、梨花叔母さまにそのことを知らせてしまうと、栽仁どのに候補者を選ぶ話が伝わってしまって、栽仁どのに有利になってしまう可能性がありました。だから、梨花叔母さまには何も伝えずに、伊藤の爺たちに命じて選考をさせていました」
「は、はぁ……」
何とか相槌を打った私に、
「爺たちからは、選考の結果、栽仁どのを梨花会に加えると決まった……と、3日前に報告をもらいました。なので、“それで話を進めて欲しい”と爺たちに命じましたが……」
(あう……)
脳天を殴られたような衝撃を受けた私は、立っているのがやっとだった。
梨花会に皇族を新しく加えることは、お上の命令で行われた。そして、伊藤さんたちが行った選考の結果をお上は追認し、栽仁殿下を梨花会に入れる話を進めるように、と命じている。この状況で栽仁殿下が“梨花会に入らない”と言ってしまうことは、栽仁殿下がお上に逆らうことに等しい。
(これ、詰んだ……どう考えても詰んだわ……)
私が茫然と立ち尽くしていると、
「あの……顧問殿下、いかがなさいましたか?お顔色が優れないように見えるのですが……」
横から牧野さんが心配そうに声を掛けてきた。
「あ……な、何でもない、です。別に、身体の調子が悪いわけじゃなくて……」
言い訳めいたことを口走った私は、
「あの、お上も牧野さんも、さっさと政務を始めないと、お昼までに終わらなくなってしまいますよ」
と続け、栽仁殿下に関する話を無理やり終わらせた。
その数時間後、1933(昭和5)年11月4日土曜日午後1時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「……というわけよ」
針の筵の上に座らされたような数時間を表御座所で過ごした私は、逃げるように皇居から退出し、自宅で昼食を取ると、本館1階の居間に移動して、栽仁殿下に今朝の出来事を報告した。
「まさか、お上が最初から最後まで関わっていたなんて、思ってもみなかったわ……」
私はぼやきながらも、夫の様子をそっと窺う。紺色の和服の上に同じ色の羽織を着た夫は、口を真一文字に引き結んだまま、じっと虚空の一点を見つめていた。
(“どうする?”とも聞けないわね。今、栽さん、いろんなことを考えてるだろうし……。しばらく、このままにしておくほうがいいかな)
夫の様子を見た私がこう判断を下した時、
「ただいま戻りました……って、父上も母上もどうしたの?」
工兵士官学校の最終学年に在学している次男の禎仁が、居間のドアを開けるなり、怪訝な目を私たちに向けた。
「あ、ああ……お帰りなさい、禎仁」
「ああ、戻っていたのか」
私と栽仁殿下が、次男に慌てて挨拶を返すと、
「父上も母上も、何か変だなぁ。……ああ、もしかしたら、おじい様が出ていらした秘密会議に、父上が出席するように要請されたとか?」
彼は突然、私たちにとんでもない台詞を投げた。
「な……何、その、“秘密会議”って……?私、聞いたことないわよ」
梨花会が開催されていることは、一応、機密事項である。諜報の道に進もうとしている禎仁にも漏らしてはいけないことだ。私が誤魔化そうとすると、
「とぼけるなよ、母上。毎月第2土曜日は、夕方に帰って来るじゃない。第2土曜日だけ、午前中は陛下のご政務のお手伝いをして、午後から秘密会議に出てるんでしょ?」
禎仁は私に食い下がり、更に質問を投げた。
「第2土曜日の午後は……お上に、生物学の研究を見せてもらってるのよ」
私はとっさに思いついたそれらしい嘘をついてみたけれど、
「嘘だね。前、伊藤の爺に聞いたら、毎月第2土曜日の午後は、高官たちが集まって、陛下がご臨席される歌会が開かれるって言われた。歌会にいらっしゃるはずの陛下が、同じ時間帯に生物学の研究室にいらっしゃることはできないよね?」
禎仁はその嘘をあっさり突き崩した。
「……」
何も言えなくなってしまった私に、
「爺たちや政府の高官の動きを見ていたら、第2土曜日の午後に、宮中で何かの会合が開かれているっていうのは分かるんだ」
禎仁は少し呆れたように言う。
「母上のことが大好きな爺たちが、母上を放っておくはずがない。絶対にその集まりに参加させるはずだよ。でも、その集まりは、伊藤の爺が言うような歌会ではない。だって、母上は和歌が苦手じゃないか。だから、毎月第2土曜日の午後は、宮中で母上や政府の高官が秘密会議をしている、っていうのは察しがついてたよ。……亡くなられたおじい様も、お元気だったころは、よほどのことがない限り、第2土曜日の午後、宮中に参内なさっていた。だから、おじい様もその秘密会議に出席なさっていたんだろうと思っていたんだ。それで、今日僕が帰ってきたら、父上と母上が、揃って深刻な顔をしているからさ。おじい様の一年祭も終わったし、ちょうどキリがいいから、おじい様の跡を継いだ父上に、その秘密会議に出席するよう要請があった……そんなことでもあったのかなぁと感じて、聞いてみたんだけど」
(なんて子よ……)
次男坊の余りにも見事な推論に、私は内心舌を巻いた。軽率なところも見受けられるけれど、禎仁の実務能力は高く、頭の回転も速い。ひょっとしたら、私の子供の中で一番優秀なのは、この次男坊なのかもしれない。
(他のことだったら褒めてあげるんだけど、一応、国家機密に関わることだしねぇ……どうしたものかしら)
私が禎仁への対応を決めかねていると、
「……僕の力は、過大評価されている」
今まで黙っていた栽仁殿下が硬い声で言った。
「栽仁殿下……」
ここで否定の言葉を言わなければ、“秘密会議”……梨花会が存在していることを、禎仁に認めてしまうに等しい。私は栽仁殿下の言葉を止めようとしたけれど、
「恐れ多くも、天皇陛下にも……。その誤解をどう解けばいいのか、それで僕は悩んでいる」
夫はこう言って、口を閉ざしてしまった。
すると、
「そんなの、父上がその評価に追いつけばいいんだよ」
禎仁は軽い調子で言った。
「禎仁、やめなさい!」
流石にこれは、父親に対する口のきき方ではない。私は次男を止めたけれど、
「実力より上のものにぶつかったからこそ得られる経験もあるじゃないか。それを糧にして、実力を伸ばしていけばいいんだよ。こういう機会は利用していかないと」
禎仁のお喋りは止まる気配がない。
「いい加減にしなさい、禎仁!」
私が次男に向かって叫んだ時、
「禎仁、帰って来てるの?」
南部家から里帰りしている長女の万智子が禎仁を呼ぶ声が廊下の方から聞こえた。
「あ、姉上に呼ばれてるから行かなきゃ」
禎仁はそう言うと、クルリと身体の向きを変えて居間から出て行こうとする。「ちょっと待ちなさい!」という私の怒鳴り声には反応しないまま、禎仁はドアの向こうに姿を隠してしまった。
「全くもう……。何なのよ、あの子は……」
苦虫を噛み潰したような顔で呟いた私は、
「栽さん、禎仁の言ったことは無視していいと思うわ。父親に対して、偉そうなことを言って……後でうんと叱らないといけないし、梨花会のことも口止めしておかないと……」
と言いながら、夫の方を振り向いた。
けれど、
「でも……禎仁の言ったことは、ある意味では正しいよね」
怒っているだろうと思った栽仁殿下は、穏やかな口調で私に応じる。
「ちょっと、何言ってるのよ!」
私は思わず夫に詰め寄った。
「今の禎仁のものの言い方、明らかにこの時代じゃ許されないわよ!私の時代でも、許さないって人が多いレベルだと思うし……」
「まぁ、確かに腹は立ったけどね。……でも、“良薬は口に苦し”って言葉もあるじゃないか」
「栽さん?」
普段と変わらない様子で椅子に座っている夫の姿を、私は訝しげに見つめた。
「あの、栽さん……?」
そっと呼びかけた私に、夫は「何だい?」と穏やかな声で応じる。そんな彼に、
「それで……その……梨花会のことは、どうするの?」
私は恐る恐る尋ねた。
「そうだね……」




